ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

破壊された自然

2011年04月06日 | 気にかかる
          
          我家の「日本水仙」 やっと咲き始め 今あちこちで咲いています
     

美しい海岸線は自然が造ったもの、それを津波がさらっていってしまいました。
町造りをどうするのか?新しい町を造るのか?元通りにするのか、個人資産の利権
関係もあり、住民との摩擦も考えられるが、当事者ではない私から見れば、町が跡
もなく無くなった状態を見れば、この際思いきった新しい町造りをしてはと思うのです。

自然が売り物の観光地であったのですが、それを人力で再現なんて、出来っこあり
ません、たとえ似通ったものが出来たとしても、それは人工の偽物。自然は自然
にしか造れないと思うのです。だから方向転換をして、現代の持てる総力を注ぎ込
んだ新しい町になれば良いな~と思うのです。

多くの工場も流されたようです。1軒1軒建て直すのも時間がかかりますから、共同
団地にして1箇所に集めるとか、働く人の活気があればその周りに、商店街が増え
る。商店が増えれば住宅が増えると輪が広がると思うのです。

まずは仮設住宅でお過ごしいただき、生産過程を重視率先させないと元気が戻らな
い。漁業が多いようなので、まず、船を手配して働く場所の確保、元気を出してもら
う。良く引き合いに出される「神戸」とは家や財産をなくしたのは同じですが、一部を
除いては過疎地も多い東北とは全然違うと思うのです。

問題は生産力の無い高齢者住宅は病院を中心に仮設を建てていただく。折角拾った
命です、それには医療と介護の手が必要なんです。私も同世代ですから、その必要
性を身に滲みて感じます。

問題は観光で商売をしていた方ですね。私の考えは及びませんが…。

町が村が元のままの姿に戻れなくとも、被災者の皆さまの心の窓には、シッカリと
残っていると思います。これは私の経験からなんですけれど、私の家も、昭和20
年3月17日神戸の大空襲で跡形もなく焼け落ちました。しかし、70年近くたった今
でも、私の頭の中には、家の間取り、元町商店街のお店等はっきりと残っておりま
す。

私が集団疎開から帰ってきたのが11月です。その時は神戸の北部、平野に住んで
いましたが、どのようにして、自宅の焼け跡に行ったのか忘れておりますが、ボチ
ボチ廻りにバラックの立ち始めた元町の我家の焼け跡にぽつんと一人立っている
自分の姿を良く思い出します。

焼けて8ヶ月、終戦から3ヶ月たっていましたから、焼け落ちた家屋の撤去はされ
ていました。このたびの津波ですべて押し流され、むき出しになった土地の映像に
過っての私がいるような気がしました。「何にもないな~」と思ったこと。

何か一つでも思い出の物をと探しておられる映像を見ますと、人間って、境遇が同
だと、同じように考え、同じ事をするのだな~と思いました。小学4年生の私も、又
何か思い出の物を…と探しました。私はその焼け跡からガラスの小鉢を2つ拾って
帰りました。母のお気に入りの器でした。今でも大切に持っております。この小鉢が、
私の小さい頃を知っている生き証人のような気がしているのです。

ですから写真を拾い集めて、ご本人に渡そうとしておられる方が居るのを見て、今
は不必要なことのように見えますが、少し落ち着けばありがたいことだと思いますよ。
今しか出来ないことですからね。整地される前に、コツコツと集めてくださっている
方には「よく気がついてくださった」と感心しています。1枚でも多く集まるように、そし
てご本人のまたはご家族の手に返りますようにと祈っております。



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