サッカー日誌 / 2015年05月19日


東京五輪1964の遺産(下)


クラマーのサッカー改革
クラブ組織と全国リーグの提案

★東京五輪の最大の遺産
 いまになって振り返れば、1964年の東京オリンピックから、もっとも大きな遺産を受け取ったのはサッカーである。
 このオリンピックが、きっかけになって日本のサッカーは、大きく変わった。
 これは、当時の西ドイツから招いたデットマール・クラマー・コーチのおかげである。
 クラマーは、1964年の東京オリンピックに出場する日本代表チームを強化するために日本へ招かれた。
 クラマーのおかげで、代表チームは東京オリンピックでアルゼンチンから1勝を挙げ、それが、さらに4年後のメキシコ・オリンピックの銅メダルに結びついた。
 しかし、クラマーのさらに大きな遺産は、東京オリンピックのあとの日本のサッカーのために残した「提言」である。
 そのなかでも重要だったのは「クラブ組織」と「全国リーグ」創設の提案だった。

★読売クラブとJSL
 その当時の日本のスポ―ツは、学校と実業団(企業)のチームが主力だった。
 「特定の身分や団体の人だけでなく、誰でも参加出来るスポーツ・クラブが必要だ」というのが、クラマーさんの考えだった。
 その考えに基づいて創設されたのが「読売サッカー・クラブ」(現在の東京ヴェルディ)である。将来のプロ化を見据えて、クラブ組織として創設された。
 東京オリンピックの翌年、1965年から「日本サッカーリーグ」(JSL)が発足した。
 当時は、関東、関西などの地域別に、大学と実業団のリーグが組織されていた。
 「高いレベルのチーム同士で試合ができるリーグを作るべきだ」と言うのが、クラマーさんの提案だった。
 日本リーグは、九州の八幡製鉄や広島の東洋工業を含む全国リーグとして創設された。

★Jリーグへの道を開く
 学校と企業のチームが主流だった当時の日本のスポーツを「クラブ組織」に組み換えるのは容易ではなかったが「読売サッカー・クラブ」の創設は、クラマー提言を受けて推進され、東京オリンピックの5年後に創設された。
 日本での本格的なサッカー・クラブの始まりだった。
 日本サッカーリーグ(JSL)は、東京オリンピックの翌年に発足した。
 クラマー提案を、すぐに実行に移した当時の企業チームの人たちの英断が見事だった。古河電工の西村章一さん、東洋工業の重松良典さんが中心だった。
 プロ野球以外では日本初の全国リーグだった。
 この二つのクラマー改革の実行が、現在のJリーグへの道を切り開いた。
 そういう目で見れば、Jリーグは東京オリンピック1964の大きな遺産の一つである。


(訂正のお知らせ)
 「東京五輪1964の遺産(中)柔道」の記事のうち「柔道の重量級の金メダルをヘーシンクに奪われたとした」とあるのは誤りでした。
 ご指摘を受けて修正しました。


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