サッカー日誌 / 2011年07月21日


森孝慈さんの思い出


プロ導入を提唱した先覚者
(7月17日 ガンのため死去、67歳)

★女子W杯決勝の日に悲報
 女子ワールドカップ決勝戦の日に、森孝慈さんの死去をドイツで知った。女子の日本代表が世界一の晴れ舞台に立とうとしているときに、男子ワールドカップの入り口に日本のサッカーを立たせようと苦労した仲間の死を聞いて胸の痛くなる思いがした。
 「森ちん」(とみんなから呼ばれていた)は、1964年東京と1968年メキシコの二つのオリンピックの代表選手として、また1980年代の日本代表チームの監督として知られている。しかし、ぼくとしては、日本のサッカーにプロフェッショナリズム導入しようと苦闘した先覚者一の人として、森孝慈の名前を歴史に留めたい。
 1980年代までの日本のサッカーは、ワールドカップの決勝大会の入り口が遠くに見えるところに立ち止まっているレベルだった。日本代表の監督として、森孝慈はなんとか、その入り口に近づこうと苦労した。

★協会に抗議して監督辞任
 日本代表監督には1981年に就任、少しずつチームをまとめた。しかし1986年メキシコ・ワールドカップの予選では、あと一歩のところで晴れ舞台への扉を開けなかった。「いいチームになった」と評価する人は多かったのだが、韓国に勝てなかった。
 森監督は「日本のサッカーもプロにならないと世界の扉は開けられない」と考えた。ライバルの韓国のサッカーが3年前にプロ化されていたこともあった。
 しかし、そのころ日本体育協会は偏狭なアマチュアリズムに支配されていて、世界に類を見ない奇妙なアマチュア規程で加盟団体を縛っていた。そのため日本サッカー協会はプロを認めることができなかった。
 森監督は「競技者(選手)が無理でも、せめて監督は専従に」とプロ契約を求めたが、協会が認めなかったため、1986年3月で日本代表の監督を辞任した。

★浦和レッズの創設に尽力
 この間の事情を森孝慈さん自身の口から話を聞きたいと思って、ぼくが幹事役をしている「日本サッカー史研究会」で話をしてくれるよう頼んだことがある。森さんは快く引き受けてくれたのだが、喉頭ガンの手術をしたあとで「大きな声が出ないから、回復するまで待ってくれ」ということだった。しかし病はしつこかった。約束が実現しないまま、永遠のお別れになってしまった。
 森ちんが日本代表の監督を辞任した直後に、日本のアマチュアリズムは崩壊し、体協アマチュア規程は撤廃され、Jリーグ創設への道が開けた。
 その後、三菱サッカー部のプロ化、浦和レッドダイヤモンズの創設に尽力し、1992年に
レッズの監督を務めるなど、生前にプロ化の時代を味わうことができた。それは、せめてもの慰めである。



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