サッカー日誌 / 2014年09月08日


山口芳忠、日本の守りを変えた男


第74回日本サッカー史研究会
(9月1日 JFAハウス会議室)

★東京五輪直前に代表に
 日本サッカー史研究会の例会に、山口芳忠さんに来ていただいた。1964年東京、1968年メキシコのオリンピックで活躍した名ディフェンダーである。
 山口さんは、もともと中盤のプレーヤーだった。それが東京オリンピック直前に左サイドバックに起用され、代表チームのレギュラーに定着した。
 山口さんの話では、東京オリンピックの年の夏に行なわれた40日間のヨーロッパ遠征の途中で、左サイドバックの宮本征勝選手が負傷して帰国したのが、きっかけだった。
 代わりのサイドバックの選手が、うまくいかなかったが、ほかにディフェンダーがいなかったので、窮余の策で起用されたのだという。
 それにしても、身長1m67cmの小柄な中盤の控えメンバーが守備ラインに起用されたのは意外だった。サイドバック起用は、遠征中の応急措置だと思われていた。

★東京、メキシコ五輪で活躍
 同じ時期に、もう1チーム、日本代表Bチームを編成して東南アジア遠征が行なわれており、両チームが帰国してから東京オリンピックの代表選手を選ぶことになっていた。
 山口芳忠選手は当時、19歳。中大2年生で欧州遠征のチームのなかで最年少だった。オリンピック・チームに選ばれるとは、本人は思っていなかった。
 ところが、意外にもオリンピック代表に選ばれた。
 そして初戦、対アルゼンチン戦の前日に、長沼監督、岡野コーチの部屋に呼ばれて先発を告げられ、クラマー・コーチからサイドバックとしてのプレーについて、こと細かな指示を受けた。
 東京オリンピックのときは夢中でプレーしていて、ほとんど何も覚えていないという。
 それから4年後のメキシコの銅メダルまで、小柄なサイドバックとしての山口芳忠の活躍が続くことになる。

◆時代の流れと共に
 山口選手が活躍したのは、日本のサッカーが大きく変わりつつある時期だった。
 1962年度の高校選手権で藤枝東高が優勝したときのシステムは「WMフォーメーション」で、山口選手のポジションはインサイド・フォワード(インナー)だった。いまのシステムでいえば、フォワードの第2線にあたる。
 中大でも最初はWMのサイドハーフだった。現在のシステムでは、中盤のサイドのポジションである。
 東京オリンピックでは、4人のディフェンダーによる現代のシステムの左サイドだった。
 テクニックがあり、相手の動きを読む頭脳があり、相手の速さについて厳しいマークを続ける粘り強さがある。そういうディフェンダーが必要になっていたときだった。
 山口芳忠の起用は、その時代の流れに沿ったものだったのだと思う。
 そういう意味で、」山口芳忠は日本のサッカーの守りを変えた男だった。


コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
スッポン (月と)
2014-10-09 04:56:52
私もそう思います。ペレイをマークしたのを思い出します。
代表の全盛期のプレーはうっすらとしか覚えていませんが、代表が苦しかった頃守備的ハーフで相手のエースをマークしつづけました。
日本の ベルティーフォクツだと思います。私は歴代日本代表のベストイレブンのひとりだと思います。
 
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