サッカー日誌 / 2011年07月22日


森孝慈さんの思い出(続)


浦和レッズ創設の苦労
(7月21日 通夜 東京・世田谷区瀬田)

◇松本暁司さんの語る思い出
 森孝慈さんのお通夜に行くために田園都市線の用賀駅から歩いていたら、松本暁司さんといっしょになった。
 浦和南高の名監督として一時代を築き、のちに埼玉県サッカー協会会長などを務めた方である。
 「森さんは浦和レッズを立ち上げるときに非常に苦労したんですよ」と暁司さんが、
歩きながら思い出を語った。
 森孝慈のオリンピック代表選手として、あるいは日本代表チームの監督としての仕事は、よく知られているが、その後の苦労は、あまり語られることはない。
 日本代表監督を辞任して間もなく、日本にもプロサッカーの時代が来る。森さんは、三菱のサッカーをJリーグに加えるための仕事をした。

◇練習場を探し歩く
 三菱重工人事部の仕事に戻っていたが、重工のビジネスは大企業や官公庁が相手である。サッカーのプロ化を認めてもらえそうにない。そこで、サッカー部を三菱自動車に移し、みずからも籍を移した。一般消費者相手の自動車ならプロサッカーによるPRのメリットもあるだろう、という読みである。
 いろいろないきさつがあって埼玉に本拠地を求めてクラブを立ち上げることになった。受け入れ側の埼玉県サッカー協会の役員として暁司さんが協力した。
 「スタジアムは浦和駒場を使えることになっていたんですけどね。練習場がない。二人いっしょに車で浦和近辺を回って候補地を探したこともありました」と暁司さんはいう。
 大三菱が背景にあってもクラブ創設は容易ではなかった。6万3千人収容の埼玉スタジアムと周辺の芝生フィールドを使っている現在の浦和レッズからは想像出来ない話である。

◇ドイツとの縁が深かった
 葬儀会場には多くの供花の札が並んでいた。そのなかにルンメニゲなどドイツのサッカー関係者の名前も目立った。
 森孝慈は日本代表監督に就任する前に、ドイツへコーチ留学に派遣されている。その前にも、日本代表チームの選手として何度もドイツに遠征している。三菱では二宮寛監督が協力を求めたボルシア・メンヘングラッドバッハのバイスバイラー監督のサッカーも学んでいる。ドイツとの縁はとくに深かった。
 ドイツのスポーツのクラブ組織とプロのあり方をよく知っていたから、浦和レッズのクラブを立ち上げるときにも、それをイメージしていただろう。
 東京オリンピックの直前に代表選手に選ばれた事情、ドイツのスポーツ事情についての考えなど、聞いておきたいこことが、たくさんあったのだが……。




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