磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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偏見と差別 ヒロシマそして被爆朝鮮人

2007年12月25日 | 読書日記など
『偏見と差別 ヒロシマそして被爆朝鮮人』
   平岡敬・著/未来社1972年

論理が跳躍する感じがしました。それゆえ、結論はボクには納得できるものではないことが多々ありました……。



統計にみる被爆者の窮状……。下「」引用。

「その一つは被爆した男性の就職率は全国平均より低く、被爆女性の就業率は全国平均より高いということだ。とくに老人や女性の就業率の高さが、被爆者の生活の困難さを示している。
 また被爆女性の有配偶率は全国平均より低く、未婚率、離婚率は高いことが冷たい数字となって現われている。
 さらに、就職、結婚にさして「不利な差別を受けたことがある」と答えた被爆者が、それぞれ二・二%、二・六%(男二・八%、女二・四%)もあったという事実が、鋭い痛みを伴って私たちの胸に突き刺さる。
 このような数字の背後には、死への不安、“原爆症”と貧困の悪循環、家庭の崩壊、被爆者の疎外感、政治不信といった重大な問題が渦巻いているのだ。」

この数字にしても、文化的背景によってかなり意味合いもかわるが、そのことにはふれていなかったと思う。

「ムダ飯を食う」という表現が差別の問題ではよくある……。下「」引用。

「被爆したときは二十歳、。国民学校の女教師だった。大火傷に苦しみながら、翌年一月に男児を生む。夫の実家は農家。被爆後、彼女は歓迎されない嫁となった。手の甲のひきつりでクワも握れず「ムダ飯を食う」からだ。整形手術のため広島赤十字病院に入院中、仲人がやってきて離縁話を持ち出した。」

ムダ飯よりもひどいことをしている人たちが、世の中を動かしているのが、この国である。
それはいつものことですね。

「対話の会」が作られたという。下「」引用。

「昨年十一月広島に生まれたのが「平和について市民の対話をすすめる会」(略称「対話の会」)である。」

無意識のうちにしたというが、多くは意識的に正義と思ってされたとボクは思う。下「」引用。

「国家が権力者のものである限り、国家は民衆と敵対する存在である。だからこそ、国家の栄光は自分のしあわせと重なり合うはずだと信じてきた多くの民衆は、無意識のうちに国家の犯罪に手を貸すことになった。南京大虐殺に参加した日本兵士も、アウシュビッツのガス室の扉をしめたナチ党員も、原爆を積んだエノラ・ゲイ号でボタンを押した米軍士官も、まさしくそのような存在であった。」

ただ、ナチス・ドイツや日本は敗戦。
アメリカは戦勝国……。
東京に住むアメリカ人のタレントは「戦勝国が敗戦国に損害賠償をしたなんて聞いたことがない」などという……。

コロンビア大学の映画についても書かれてありました。下「」引用。

「ことし(昭和四十五年)三月十八日夜、TBS系テレビの電波に乗った米国コロンビア大学マスコミ・センター制作の記録映画『ヒロシマ・ナガサキ--一九四五年八月』は、映像の持つ意味と、なぜ国家権力がこの映像が民衆の目から隠そうとしてきたか、ということを改めて私たちの目の前に突きつけてみせた。このわずか十六分の映画には、敗戦直後、日本映画社が制作したものの翌年五月に米占領軍に没収されてしまった『原子力爆弾の効果・広島と長崎」(二時間四十五分)の人体場面が豊富に使われている。」

重要なのは、没収されたものがどうしてコロンビア大学で使用できたかでしょうね。

このころには、もうソ連が原爆を持っていた……。
平和のためなどではなく、他の意味で作られた映画だろうと書く人もいる……。

天皇と佐藤首相の来広について。下「」引用。

「二十四年前の天皇広島訪問を取材した老新聞記者は「前回の時は警官が天皇の方を向いていたが、こんどは市民の方を向いて立っていた」という言い方で、政治の姿勢の変化を語った。」

その当時はもう法的にも天皇は象徴であって、君臨すれど統治せずですね……。

そもそも天皇と核兵器保持を計画した佐藤栄作とは別人である。

そして、政治の姿勢だけではなく、佐藤の時には学生運動が盛んであった……。


三菱造船所で働いていた朝鮮の人のことが書かれてありました。下「」引用。

「金再根さん(一九二六年生まれ、日本名=富田孝太郎)である。金さんは軍属として徴用工七百人と共に広島の三菱造船所で働いていた。彼らは十六分隊に編成され、金さんは第一分隊長だった。原爆で左脚に大きな火傷を負ったが「祖国の建設のために働かねばならない」という決意を抱いて、その年の秋、七十人の徴用工と一緒に帰国した。」

挺身隊で働かれていた人のことも書かれてありました。下「」引用。

「孫さんの帰国後の消息を知ろうと手を尽している最中に、顔なじみの釜山の厳粉連合さんとソウルの林福順さんが広島にやって来た。彼女らは十二月八日に京都で催された第二次大戦韓国人犠牲者慰霊祭に列席する代表の一員に選ばれて来日したのである。
 二人は広島駅に着くなり「ぜひ原爆病院で治療を受けたい。それが日本へ来た最大の目的です」と話した。「わたしたちは“お国のために”挺身隊や勤労動員で働き被爆したのだから、日本人と同じように原爆手帳はもらえるでしょうね」と言うのだった。“お国のため”という彼女らの論理は一○○%肯定できないにしても、日本に来てそう言わざるをえないほど彼女らは原爆病院での治療を熱望していた。」


無援の海峡 ●ヒロシマの声 被爆朝鮮人の声







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