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岩崎弥太郎不屈の生き方-「三菱」の創業者-

2010年05月23日 | 読書日記など
『岩崎弥太郎不屈の生き方-「三菱」の創業者-』
   武田鏡村・著/PHP研究所2009年

私塾で、長次郎……。下「」引用。

「牢獄を出た弥太郎は、追放処分になったため、高知市内から一里ほどの鴨部(かもめ)村に移り、そこから神田(こうだ)村に移って、そこで私塾を開いて漢学を講じた。
 弥太郎の私塾で学んだのが、にのちに坂本龍馬の亀山社中に投じる池内蔵太と近藤長次郎である。-略-」



シーボルトと出会う。下「」引用。

「そのシーボルトが再び来日していたときに面会したのであるが、医学にも本草学(ほんそうがく)といわれた植物・薬物の研究にも関心がなかった弥太郎は、ただ会ったというだけである。また二宮敬作から狸(タヌキ)の解剖を見せられても、医学的な衝撃を受けることもなかった。」

今井(長岡謙吉)を逮捕しに長崎へ? 下「」引用。

「明治の後年に刊行された松村巌の『岩崎弥太郎』には、弥太郎の長崎行きの使命は、下横目としてキリスト教に帰依した今井を捕縛するためであったとしている。-略-弥太郎自身も花街遊びを慎んだと記しているほどである。これからすれば、弥太郎が下横目として今井の探査と追補を使命としたという説は間違っている。-略-長岡は、慶応四年に海援隊が出版したキリスト教の撲滅論を述べた『閑愁録』を書いていることから、彼がキリスト教を調べていたことは事実であるが、キリシタンになっていたというのは、やはり間違いということになる。」

姉の嫁した吉村家で……。下「」引用。

「生家で母親の美和の農耕を手伝っていた弥太郎は、田舎で埋もれる考えはなかった。高知に出て姉の嫁した吉村家に身を寄せて、復職の機会をうかがっていた。東洋をとおして復職を願ったようであるが、なかなか事は進まない。-略-」

東洋暗殺、後藤象二郎は横浜へ。

勝海舟、記す。下「」引用。

「海舟は、この池田屋騒動を新選組の暴挙として怒りをこめて日記に記している。
「浮浪殺戮の挙あり。壬生浪士(新撰組のこと)、興の余り無辜(何の罪のない者)を殺し、土州の藩士、また我が学僕の望月(亀弥太)など、この災に逢う。長藩もまた然り」-略-」

目次

著者の勝海舟・評。下「」引用。

「このときも海舟は幕府の後始末を頼まれて、薩摩の西郷と会談して江戸城の無血開城にこぎつけているが、海舟は都合のよいときだけ幕府に利用されたものの、特別それに不満をもつふうでもない。そこに常人では、なかなかもつことのできない度量の大きさがあった。」

著者によれば後藤象二郎も度量が大きいようです……。
--龍馬を味方につけることとは、薩摩と長州と関われるということ。

中岡慎太郎と乾。下「」引用。

「これは中岡と乾(板垣)退助が先行して、薩摩の西郷や小松と図っていたものであるが、中岡らは武力による討幕で薩摩と密約していた。-略-しかし、後藤は武力討幕を認めず、-略-」

上士となった岩崎弥太郎、しかしまだ上役は佐々木三四郎。

弥太郎は、店の前に『おかめ』の面を掲げていたという。

西郷従道とやりあう弥太郎。下「」引用。

「-略-酔っ払った西郷と喧嘩になった。ほかの客が引きあげても、二人は口論をやめなかったという。政府の高官といえども、決して媚びることがなかった弥太郎の剛毅(ごうき)な性格を垣間見る思いである。」






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