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教科書に書かれなかった戦争 Part 11 川柳にみる戦時下の世相

2009年01月29日 | 読書日記など
『教科書に書かれなかった戦争 Part 11 川柳にみる戦時下の世相』
   高崎隆治・選著/梨の木舎1991年

「まえがき」に書かれてあります。下「」引用。

「表現の自由がないどころか、まかりまちがえば非国民とか国賊とかのレッテルを貼られて、暗い場所へ放り込まれるような時代に、諷刺や洒落や滑稽などといった川柳の本質ともいえる精神を抱きつづけるのは、かなりむずかしいことである。あまつさえ、状況は日ごとに深刻化し、食に餓え、衣に窮し、さらに空襲にも脅えなければならないとすれば、人は川柳精神どころか絶望の淵をさ迷うことになるだろう。あるいは、マジメな国民なら、為政者の「奮起せよ」「身命を賭して戦え」「生死を超越すべし」などの叱咤激励に応え、降りそそぐ焼夷弾の雨の中で奮闘して焼死したかもしれないが、いずれにしても、精神の余裕がないところに悲劇も痛苦も生れる結果になった。」



詐欺師と適切な表現……。下「」引用。

「日本は「支那派遣軍」を大陸に送り、「マレー派遣軍」をマレーシアに、「フィリッピン派遣軍」をフィリピンに送ったのである。そういう詐欺師のような為政者に協力したり妥協したり、あるいは共鳴したりすれば、どういう結果になるかはここで記すまでもないことだが-略-」

乞食はモノを貰えず、気がつけば国民が乞食のような生活をしていたという……。

当時、酒は水でうすめられていたという。
徴兵検査をうけて、一升をのんではじめて足がふらついたという。
そして、学徒兵として入隊する直前、山県の地酒を三合ほど飲んでダウンしたという。

米の色がねずみ色だったという……。下「」引用。

「統制は米の色まで変りだし  凡楽
 -略-白米そのものがなくなり、米の色がねずみ色がかってきた。一つには精米に使われる電力の節約ということもあったが、主として、精白すればするほど目減りがひどくなるという理由による。-略-」

捕虜……。下「」引用。

「スクリーンの捕虜は笑顔でパンを食べ 哲水
 捕虜を虐待していないという宣伝で、いわゆるヤラセであろう。もっとも、ろくな食べ物しか与えていない時に、うまいパンを配給すれば、「笑え」などといわなくても笑顔を見せるだろう。彼らの喜びの度合いで、日常どんなものを与えているかがわかるというものだ。-略-」

もくじ

古今東西、セレブや権威は意地汚い? 下「」引用。

「配給所で鮪裂(まぐろさ)いてるのは見たが 寺井鋭々
 -略-饅頭屋も煎餅屋も、店では売らず、ひそかに町内の有力者だけに配っていた例はどこの町にもざらにあった。」

木炭車についての記述も日常的でおもしろい……。下「」引用。

「生ぬるい風を置いてく木炭車 管野十思
 木炭車はバスでもタクシーでもスピードが出ないだけではない。燃焼装置が後部にあるため、冬はいいが夏はうしろの座席は暑くて坐っていられない。乗客だけでなく、運転手も大変である。だいいち、バスなど、発車までにかなり時間があっても火を消すわけにはいかない。早朝の車庫などは何台ものバスが点火するから、煙りがあたり一面に立ちこめる。点火といっても簡単に火はつかないのである。もっとも、ガソリン車でも、当時の車は冬場になるとなかなかエンジンがかからない。クランク棒を汗だくで回すわけだが、しまいには運転手のほうが疲れ果て、応援を読んで当たりがかりで回す始末である。戦争末期、運転手がいなくなり、女性がバスを運転していたが、彼女たちはどうやってクランク棒を廻したのだろうか。」

神社は生命軽視で儲けたようだ……。下「」引用。

「長期戦神社このごろよく儲(もう)け 河村日満子
 -略-「神社」は、出征兵士の無事を祈る家族の参詣で賽銭がふえたりお守りが売れたりするわけで、「長期戦」になればなるほど儲かる仕掛けである。作者の視野にそれがあるかどうかかわらないが、一番儲かったのは村の鎮守ではなく靖国神社だろう。」

御利益はあったのか?
--あるわけがないか……。

護国神社……。下「」引用。

「人小さし護国神社へみち広く 渡辺青堂
 護国神社という、靖国の下請けのような神社を、各県に一つずつ造るという話がきまり、資材不足・人手不足の時代に造営が始まった。道路も境内も広々として、村の鎮守などとはスケールが違った。何百年も前からの神社なら、樹々が茂りかなり広くてもそれほどに感じないが、こちらは新しいことで、いたずらにだだっ広く感じられた。したがって、そこを歩く人間は点のように小さかった。-略-」


靖国神社関連のことも詠まれている……。下「」引用。

「あの方も神の妻かと振り返り 加藤上棟
 「神の妻」とはいささか滑稽だが、戦死者の妻のことである。戦死すれば、靖国神社に祀られて「神」になる。つまり、国家が勝手に「神」にしてしまうわけだが、残されたほうはそれからが大変なのだ。靖国の遺児はつねにかならずケナゲでなければならないし、妻は「神の妻」にふさわしくキゼンとした生き方をしなければならない。もともと子供を二人三人も抱えたそういう女性がまともに生きていける国ではないが、だからといって「神の妻」は水商売をするわけにもいかない。もし彼女が、背に腹はかえられなくなって厚化粧をしたり再婚でもすれば、世間の目はたちまち同情から蔑視に変わる。
 戦死者を「神」にすることが、どれほどその妻や子に辛い人生を強いることか。「靖国」などどう考えても無用の長物である。」

「靖国の遺児」のことも……。下「」引用。

「遺児(ひとり)ぐらい取ってやろうと言わぬなり 魚住満潮
 そのころの年配者たちは、「靖国の遺児」などと喧伝されていた万を超える子供たちのことをどう思っていたのだろう。この句の「遺児」には「ひとり」と仮名がふられているが、当時は一軒に子供三、四人というのが普通だった。つまり、父親が戦死すれば、たちまち三人四人の遺児が生れるわけで、一人ぐらいは引き取ってやろうという者がいてもよさそうなものだと嘆いているのである。-略-だからこそ、「靖国の遺児」などと口先のサービスに懸命だったのだ。」

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冷血漢になったら、……。下「」引用。

「帰還してから世の中がむずかしい 荒川紫陽花
 -略-しかし本当にむずかしいのは、自身が兵士として軍隊や戦場で骨の髄にまで滲み込ませた精神や習慣である。-略-戦場で行なった殺戮や強姦・掠奪など、そしらぬ顔でいても、言動のどこかにその匂いはただよう。五十年六十年たってもである。」

--戦争は究極の差別……。下「」引用。

「士農工商昭和の御代(みよ)で振り返り 武部香林
 -略-「士農工商」はむろん江戸時代の身分差別-略-作者によれば、なくなったはずのその差別が、戦時下において復活したというのである。つまり「士」は軍人で、つぎには食料不足の折から「農」であり、ついでに軍需産業の「工」、もっとも不用な存在は、売るものもなく転業を余儀なくされている商人だというわけだ。そういえば商業学校から男子が締め出された前代未聞の時代であった。」








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