『沖縄戦「集団自決」を生きる
-渡嘉敷島、座間味島の証言 写真証言-』
森住卓写真・文/高文研2009年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「沖縄・慶良間諸島で何が起こったかを伝えたい!
その思いに駆られたフォトジャーナリストが、極限の惨劇「集団自決」を体験した人たちをたずね、その貴重な証言を風貌・表情とともに伝える!」
沖縄の「集団自決」について。下「」引用。
「二○○七年三月三○日、文部科学省は二○○六年度高校教科書検定結果を発表した。そこで、日本史教科書の沖縄戦における「集団自決」(強制集団死)の記述について、「日本軍による自決命令や強制があった」とする七冊に対して、日本軍による命令・強制・誘導などの表現を、削除・修正させたことが判明した。-略-沖縄県民は一斉に反発、怒りの渦は参加者一一万人(主催者発表)という、日本復帰後最大規模の「教科書検定意見撤回を求める9・29県民大会」となって爆発した。」
最初はテープだけだった吉川嘉勝さん。下「」引用。
「戦後半世紀近くが過ぎたころ、先輩教員から「あなたは渡嘉敷島の『集団自決』の生き残りだそうですね。子どもたちにその体験を話してくれませんか」と頼まれた。
そう言われても、はじめは「集団自決」の証言を子どもの前で話す勇気はなかった。悩んだ末、テープに吹き込んで流したことがある。子どもたちが涙を出しながら聞き入っていた。
その後、しばらくは証言をしなかった。-略-」
県民大会で語る……。下「」引用。
「一一万人の沖縄県民が集まった「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(二○○七年九月二九日)の壇上で、自身の体験を語った吉川さん。
「渡嘉敷村も座間味村も、日本兵がいなければ、手榴弾が配られなければ、日本軍の命令がなければ、『集団自決』などは起こらなかった」と、きっぱりと言った。」
下っ端の日本兵は……。下「」引用。
「-略-知り合いの日本兵が機関銃を持って座っていた。
『私たちを殺してください』と言ったら、『なんでそんな馬鹿なことを言う、生きるだけは生き延びなさい。自分から死ぬもんじゃない』と叱られたので、助かったんですよ。
自決命令は上の人はわかっていたけれど、下っ端の兵隊はわからなかったみたい。
この時の日本兵は、その後の米軍の攻撃で戦死しました」
碑があるという……。下「」引用。
「かつて「白玉之塔」が建っていた場所に、1993年に建立された「集団自決跡地」の碑」
「軍の命令じゃなければ「集団自決」はしませんよ
生きようと思って避難していたのだから」金城重栄さん(81歳)。
「鬼畜米英」が……。下「」引用。
「「鬼畜米英」に遭遇したときに米英軍を憎しみ殺すという思想。しかし、戦場で米軍に遭遇するとそれが恐怖に変わり、米軍に向けるはずの刃を愛する家族に向ける。米軍にも日本軍にも追い詰められて、だから「自決」しかないわけですよ。日本軍がいなければ逃げてゆきますからね。」
曽野綾子について。下「」引用。
「苦しみや体験が深く重いほど、ほとんどの話が出来ない。だからこういう重い話、暗い話は表現するのは疲れるし、惨めになるから「イヤなかった、わからん」と言って、作家の曾野綾子の取材をしていたころ(注 : 一九七○年ころ)は、みんなが隠そう、隠そう、逃げよう、逃げようとしていたころだったのですよ。
それをね、こんな話はなかったと『神話』(注意 : 曾野綾子著『ある神話の背景』)という風にして表現してしいる、どんな偉い作家であろうとも、沖縄戦のことをこんな風に表現するのは、絶体に間違っていますよ。」
index
海澤隊長を絶体許せない。下「」引用。
「いま考えると、あの時、大事な武器である手榴弾を民間に渡したというのは、「死になさい」ということですよ。「捕虜になるより死ね」というこですよ。その一語に尽きる。
海澤隊長は「言わなかった、命令しなかった」と言うんですが、私は絶体許せない。
ここに日本軍が来なければ、自決はなかった。組織の中で海澤隊長が「自決しなさい」と命令しなかったということはないんですよ。
捕虜にされて殺されるとか、女は強姦されるとか、いろいろ聞かされておったんで。
当時の教育は「天皇陛下万歳とか、お国のために死になさい」と教えていたけれど、生き延びられたのは、「お国のために死になさい」という教えはイヤと思っていたからですよ。」
index
index
もくじ
-渡嘉敷島、座間味島の証言 写真証言-』
森住卓写真・文/高文研2009年
帯に書かれてあります。下「」引用。
「沖縄・慶良間諸島で何が起こったかを伝えたい!
その思いに駆られたフォトジャーナリストが、極限の惨劇「集団自決」を体験した人たちをたずね、その貴重な証言を風貌・表情とともに伝える!」
沖縄の「集団自決」について。下「」引用。
「二○○七年三月三○日、文部科学省は二○○六年度高校教科書検定結果を発表した。そこで、日本史教科書の沖縄戦における「集団自決」(強制集団死)の記述について、「日本軍による自決命令や強制があった」とする七冊に対して、日本軍による命令・強制・誘導などの表現を、削除・修正させたことが判明した。-略-沖縄県民は一斉に反発、怒りの渦は参加者一一万人(主催者発表)という、日本復帰後最大規模の「教科書検定意見撤回を求める9・29県民大会」となって爆発した。」
最初はテープだけだった吉川嘉勝さん。下「」引用。
「戦後半世紀近くが過ぎたころ、先輩教員から「あなたは渡嘉敷島の『集団自決』の生き残りだそうですね。子どもたちにその体験を話してくれませんか」と頼まれた。
そう言われても、はじめは「集団自決」の証言を子どもの前で話す勇気はなかった。悩んだ末、テープに吹き込んで流したことがある。子どもたちが涙を出しながら聞き入っていた。
その後、しばらくは証言をしなかった。-略-」
県民大会で語る……。下「」引用。
「一一万人の沖縄県民が集まった「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(二○○七年九月二九日)の壇上で、自身の体験を語った吉川さん。
「渡嘉敷村も座間味村も、日本兵がいなければ、手榴弾が配られなければ、日本軍の命令がなければ、『集団自決』などは起こらなかった」と、きっぱりと言った。」
下っ端の日本兵は……。下「」引用。
「-略-知り合いの日本兵が機関銃を持って座っていた。
『私たちを殺してください』と言ったら、『なんでそんな馬鹿なことを言う、生きるだけは生き延びなさい。自分から死ぬもんじゃない』と叱られたので、助かったんですよ。
自決命令は上の人はわかっていたけれど、下っ端の兵隊はわからなかったみたい。
この時の日本兵は、その後の米軍の攻撃で戦死しました」
碑があるという……。下「」引用。
「かつて「白玉之塔」が建っていた場所に、1993年に建立された「集団自決跡地」の碑」
「軍の命令じゃなければ「集団自決」はしませんよ
生きようと思って避難していたのだから」金城重栄さん(81歳)。
「鬼畜米英」が……。下「」引用。
「「鬼畜米英」に遭遇したときに米英軍を憎しみ殺すという思想。しかし、戦場で米軍に遭遇するとそれが恐怖に変わり、米軍に向けるはずの刃を愛する家族に向ける。米軍にも日本軍にも追い詰められて、だから「自決」しかないわけですよ。日本軍がいなければ逃げてゆきますからね。」
曽野綾子について。下「」引用。
「苦しみや体験が深く重いほど、ほとんどの話が出来ない。だからこういう重い話、暗い話は表現するのは疲れるし、惨めになるから「イヤなかった、わからん」と言って、作家の曾野綾子の取材をしていたころ(注 : 一九七○年ころ)は、みんなが隠そう、隠そう、逃げよう、逃げようとしていたころだったのですよ。
それをね、こんな話はなかったと『神話』(注意 : 曾野綾子著『ある神話の背景』)という風にして表現してしいる、どんな偉い作家であろうとも、沖縄戦のことをこんな風に表現するのは、絶体に間違っていますよ。」
index
海澤隊長を絶体許せない。下「」引用。
「いま考えると、あの時、大事な武器である手榴弾を民間に渡したというのは、「死になさい」ということですよ。「捕虜になるより死ね」というこですよ。その一語に尽きる。
海澤隊長は「言わなかった、命令しなかった」と言うんですが、私は絶体許せない。
ここに日本軍が来なければ、自決はなかった。組織の中で海澤隊長が「自決しなさい」と命令しなかったということはないんですよ。
捕虜にされて殺されるとか、女は強姦されるとか、いろいろ聞かされておったんで。
当時の教育は「天皇陛下万歳とか、お国のために死になさい」と教えていたけれど、生き延びられたのは、「お国のために死になさい」という教えはイヤと思っていたからですよ。」
index
index
もくじ