『八月の詩人-原爆詩人・峠三吉の詩と生涯-』
増岡敏和・著/東邦出版社1978年
文学から日本共産党に入党したようです。
--今では、そのような文学者がいなくなった政党ではないでしょうか?

著者は1949年8月なかば、日本共産党広島地区委員会の事務所にいたという。
その当時で、もう峠三吉は著名な詩人であったそうだ。
峠は『地核』(広島詩人協会機関誌)をだし、詩をやらないかと勧めたそうです。
アカ攻撃があったという。下「」引用。
「当時、職場ではアカ攻撃がはげしくなっており、自由にものがいえなくなりつつあった。原子爆弾についても批判がましいことを公表すると、アメリカ占領軍批判とされ占領政策違反にの問われる状況にあったし、「平和」ということばさえ圧殺されるような風潮がひろげられていた。」
この当時のことを、もっと詳しく知りたいとボクは思っています。
--こんな時代も二度と来てほしくないと考えるからです。
一家はクリスチャンだったという。下「」引用。
「一家は、賀川豊彦の『死線をこえて』『太陽を射るもの』などを読んで、賀川より深刻な影響をうけていた。神戸葺谷の貧民窟葺合新川で路傍伝道に専心した賀川の贖罪愛の実践と献身の生活を、三吉の父母も一夫も多大な感動をもってうけとめ、一家で話しあうことがあった。」
貸本屋をしていた峠三吉。下「」引用。
「一九四六年の初秋、三吉が粗末なバラックの貸本屋を建てた場所が、その原田夫人の仮住居のちかくであった。」
「かれの生涯を決定づけた要素」著者による。下「」引用。
「1. 母の影響(とくに文学的素質)
2. 兄姉三人が早くから(昭和初期)革命運動に参加していた影響
3. いつも死をにおわせていた宿痾
4. キリスト教の信仰
5. 戦争
6. 原子爆弾
7. 原田和子との出会いと生活
8. 広島青年文化連盟に拠る活動
9. 日本共産党入党
11. 日鋼広島事件
12. われらの詩の会(および反戦詩人集団)に拠る活動」
広島青年文化連盟で活動、悩みなどを中川秋一に相談。下「」引用。
「中川秋一は、当時民主主義科学者協会の中国地方代表の中央幹事であり、マルクス主義芸術論に造詣が深く、戦後の広島における芸術と芸術運動の権威であった。-略-その二回目の会見でついに新日本文学界会に入会を決意する。」
--1953年2月から、著者は反税闘争で広島刑務所。
母の面会で峠の死を知ったという。下「」引用。
「母はわたしが坐るなり「峠さんが死んじゃったよ、手術で。内臓はぐしゃぐしゃじゃったそうよ。原爆じゃなかったんかね」と娘を原爆で奪われていた母はしんみりといった。」
index
もくじ
Index



増岡敏和・著/東邦出版社1978年
文学から日本共産党に入党したようです。
--今では、そのような文学者がいなくなった政党ではないでしょうか?

著者は1949年8月なかば、日本共産党広島地区委員会の事務所にいたという。
その当時で、もう峠三吉は著名な詩人であったそうだ。
峠は『地核』(広島詩人協会機関誌)をだし、詩をやらないかと勧めたそうです。
アカ攻撃があったという。下「」引用。
「当時、職場ではアカ攻撃がはげしくなっており、自由にものがいえなくなりつつあった。原子爆弾についても批判がましいことを公表すると、アメリカ占領軍批判とされ占領政策違反にの問われる状況にあったし、「平和」ということばさえ圧殺されるような風潮がひろげられていた。」
この当時のことを、もっと詳しく知りたいとボクは思っています。
--こんな時代も二度と来てほしくないと考えるからです。
一家はクリスチャンだったという。下「」引用。
「一家は、賀川豊彦の『死線をこえて』『太陽を射るもの』などを読んで、賀川より深刻な影響をうけていた。神戸葺谷の貧民窟葺合新川で路傍伝道に専心した賀川の贖罪愛の実践と献身の生活を、三吉の父母も一夫も多大な感動をもってうけとめ、一家で話しあうことがあった。」
貸本屋をしていた峠三吉。下「」引用。
「一九四六年の初秋、三吉が粗末なバラックの貸本屋を建てた場所が、その原田夫人の仮住居のちかくであった。」
「かれの生涯を決定づけた要素」著者による。下「」引用。
「1. 母の影響(とくに文学的素質)
2. 兄姉三人が早くから(昭和初期)革命運動に参加していた影響
3. いつも死をにおわせていた宿痾
4. キリスト教の信仰
5. 戦争
6. 原子爆弾
7. 原田和子との出会いと生活
8. 広島青年文化連盟に拠る活動
9. 日本共産党入党
11. 日鋼広島事件
12. われらの詩の会(および反戦詩人集団)に拠る活動」
広島青年文化連盟で活動、悩みなどを中川秋一に相談。下「」引用。
「中川秋一は、当時民主主義科学者協会の中国地方代表の中央幹事であり、マルクス主義芸術論に造詣が深く、戦後の広島における芸術と芸術運動の権威であった。-略-その二回目の会見でついに新日本文学界会に入会を決意する。」
--1953年2月から、著者は反税闘争で広島刑務所。
母の面会で峠の死を知ったという。下「」引用。
「母はわたしが坐るなり「峠さんが死んじゃったよ、手術で。内臓はぐしゃぐしゃじゃったそうよ。原爆じゃなかったんかね」と娘を原爆で奪われていた母はしんみりといった。」






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