磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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戦争と人間の記録 玉砕島テニアン

2009年06月29日 | 読書日記など
『戦争と人間の記録 玉砕島テニアン』
   石上正夫・著/現代史出版会1979年



テニアンの碑……。下「」引用。

「一九七八(昭和五三)年三月二九日の朝、わたしたちは、赤道に近い島、テニアン島の最南端にある、カロリナス岬の断崖に立っていた。『鎮魂不戦之碑』の除幕式である。この断崖は、太平洋戦争下、空襲、艦砲射撃のうえ上陸した米軍の圧倒的な火力、戦車に追いつめられ、火焔放射器で焼きたてられた逃げ場を失った将兵や在留邦人が、手榴弾で自決し、あるいは母が子を抱いて身を投じた場所である。-略-」

本によってカロリナス岬の碑が……。下「」引用。

「一九七七(昭和五二)年七月一六日、『萬歳岬の虹』の執筆者八人が新宿に集まった時のことであった。
 この日を境として、慰霊碑を建立するための企画、準備、構想が胸の奥に楔となってうちこまれ、日を追って次第に拡大されていった。そしてカロリナス岬で除幕式が行なわれた一九七八(昭和五三)年三月二九日までの九ヵ月、碑が完成されるまでを六期にわけて考えることができる。-略-」

しかし、検索してみると否定する人もいる……。

東京爆撃……。下「」引用。

「一九四四(昭和一九)年一一月二四日、サイパン、テニアンなどマリアナ基地を発進したB29八○機は、東京都下武蔵野町の中島飛行機工場を爆撃した。これがマリアナ基地からのはじめての東京爆撃であ。る。この日、所沢陸軍少年飛行学校生徒であったわたしは、他の生徒ともに同工場でエンジンの組み立て実習に参加していた。」

九名でサイパン、テニアン島へ。下「」引用。

「一九七○(昭和四五)年八月五日、「東京空襲を記録する会」が結成された。松浦総三事務局長、早乙女勝元氏などの推せんにより、わたしも『東京大空襲・戦災誌』(全五巻、講談社)の編集委員となった。-略-編集委員たちはいつかサイパン、テニアンのB29発進基地をこの目でたしかめたいという願いを、ひそかにもつようになった。その願は一九七六(昭和五一)年一二月二八日かなえられた。-略-九名の「東京空襲を記録する会」のメンバーは、羽田国際空港を飛び立ってサイパン島に向かった。-略-」

バンザイ岬に「平和記念公園」があるという……。下「」引用。

「今、この悲劇の地はマリアナ知事によって「平和記念公園」に指定され、背に十字架を背負った平和慰霊像・観音の立像がひっそりと立っている。」

テニアンの製糖工場は東洋第二だったという……。下「」引用。

「三五(昭和一○)年には新式第二工場が増設され、テニアン製糖工場は一躍して台湾屏東工場につぐ、東洋第二の大工場となった。この島だけで、日本の砂糖の全生産高の一二パーセントを産出したのである。」

「絶望と恐怖の地獄図」、『死の彷徨』、「わが子を抱いて彷徨する母」、「住吉神社の惨」(*テニアン島)、「ルメイの「皆殺し作戦」」というタイトルの文章もありました。

「玉砕への疑問」 下「」引用。

「そして三十数年、まだそらの白骨は放置されたままになっているものもある。このような無惨な死を、安全な防空壕の中で戦争指導者が考え出した「玉砕」ということばでくくってしまってよいものだろうか。わたしは「玉砕」ということばほど欺瞞にみちたことばはないように思えてならない。-略-」







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