『「戦争経験」の戦後史-語られた体験/証言/記憶-』
成田竜一・著/岩波書店2010年
全般的なことを短く的確に、把握されているように思えました……。
ボクの知らないところもあり、理解できないところもありました……。
帯に書かれてあります。下「」引用。
「戦争とどう向き合い、受けとめるか--
戦後、人々は直接的な体験の有無にかかわらず、
戦争との距離をはかることによって自らのアイデンティティを確認し、
主体を形成してきた。
敗戦からの時間の経過にともない、また社会状況に応じても変容してゆく
戦争についての語りの特徴を変遷をたどりながら、
戦後日本社会の特質に迫る。」
「つくる会」について。下「」引用。
「歴史修正主義もまた、あらたな形で立ち現れてくる。一九九六年の暮れに「「新しい歴史教科書」をつくる会」が発足した。「つくる会」は、多様な寄り合い所帯であり、古典的なナショナリストとグローバリズムへの意識を敏感に持つあたらしいタイプのナショナリスト、構成主義的論者と実証的・本質主義的な論者たちの集合体であった(のち、組織として分裂する)。かつての皇国史観とは異なる次元での歴史修正主義が、二○世紀には起こってくる。そして、「つくる会」は「従軍慰安婦」に関する記述を中学校の歴史教科書に載せることへの声高な批判を皮切りに、「大東亜戦争」という用語を教科書に持ち込んでいった。」
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「1 書き換えられる「戦記」」 下「」引用。
「戦記の定義はさまざまに可能であるが、そのひとつとして、「書き換えられる」という特徴を挙げうるほどに、戦記には書き換えがともなう。
現在では小説に分類される吉田満「戦艦大和ノ最期」のばあい、最初の稿は、復員後の一九四五年九月に-略-
このかんの過程でも、絶えず書き換えがあったことを千早耿一郎が記しており、さらに一九七四年に「決定版」(『戦艦大和ノ最期』北洋社)が刊行されるに至る。千早は、「戦艦大和ノ最期」に八つの版を指摘し、その異動を詳細に検討しているが、外的な制約、内的な要因によって戦記が書き換えられていく、ひとつの典型を吉田「戦艦大和ノ最期」は示している。」
β型の書き換え……。下「」引用。
「β型では、直接の戦争体験を綴るのではなく、関心に応じて調査し、報告するという体裁のものが圧倒的である。これまでの戦争像に対し批判をもち、あらたな対象を通じてその書き換えを図り、文脈の書き換えにいたることとなる。」
曾野、阿川の書き換え。下「」引用。
「これまでの文脈を無化し、修正するβ-I型の書き換えの礼としては、阿川弘之の海軍もの(『山本五十六』新潮社、一九六五年[審判、一九六九年]、『米内光政』新潮社、一九七八年)をはじめ、山本七平の日本軍もの(『私の中の日本軍』上下、文藝春秋、一九七五年。『一下級将校の見た帝国陸軍』朝日新聞社、一九八四年』や、曾野綾子の沖縄もの(『切りとられた時間』中央公論社、一九七一年。『生贄の島』講談社、一九七○年。『ある神話の背景』文藝春秋、一九七三年)がある。」
上坂冬子、角田房子の書き換えもβ-I型だという。下「」引用。
「また、上坂冬子の「戦犯」ものと被害者もの(『巣鴨プリズン一三号鉄扉』新潮社、一九八一年。『生体解剖』毎日新聞社、一九七九年。『慶州ナザレ園』中央公論社、一九八二年、『奄美の原爆乙女』中央公論社、一九八七年)と自伝『私の人生 私の昭和史』(集英社、二○○四年)、さらに、角野房子の将軍もの(本間雅晴を描いた『いっさい夢にござ候』中央公論社、一九七二年、阿南惟幾を描いた『一死、大罪を謝す』新潮社、一九八○年、『責任 ラバウルの将軍今村均』新潮社、一九八四年)などがその例として挙げられる。」
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曾野、阿川の書き換え。下「」引用。
「阿川、曾野らは「戦時」の主調音には批判的だが、「戦後」の論調にも同意しない。彼らの書き換えは、戦争指導者たちの家族を「無垢」なものとしたうえで、「私」の領域で細やかな配慮を示す戦争指導者たちを紹介し、その真摯な態度、毅然とした姿勢、そして周囲のひとたちからの人望のあつさを描き出す。また、動員されたあげくBC級戦犯とされたものたちの側から、主体的に選び取ったのではない不幸--戦争のもたらす矛盾を提示し、個人の次元における戦争責任を不問にする論を提出した。
阿川、曾野らは、(暴走した)陸軍に対して海軍、(平和を乱した)A級戦犯に対してBC級戦犯の存在を対置し、その観点からこれまでの戦争像を相対化し、戦争が画一的に批判しつくせないことを訴え、さまざまな個人に焦点を当てた戦争像を描く。「戦後」の文脈での戦争の論じ方の書き換えを、実践的に遂行する営みであったといいうる。」
曾野による書き換え。下「」引用。
「曾野による書き換えは、形式とともに内容も作品ごとに推移するが、なかでも『ある神話の背景』は、「体験」の時代にかかれた沖縄の戦記の文脈を検証するという手法を用いている。曾野は複数の作品による複数の手法での文脈の書き換えをおこない、この三部作によって、これまでの沖縄戦の叙述への対抗的な文脈を作り出そうとしたのである。
このとき、曾野は「戦時」を現時点から切り離し、いまは平和の時代としている--「あの時、あんたたちも人間じゃなかった。我々も違う。だからそんな中で、世間が考えるような人並みの不幸なんかある訳ないよ」(『切りとられた時間』)。また、「戦争のあの時代にあった人間の心を、今の時点から拒否することはいくらでもできる。しかし現状を受けいれつつあるこの同時代人に果してその資格があるものだろうか」(『ある神話の背景』)と、アジア・太平洋戦争に対する評価の軸にかかわる議論にまで、書き換えの文脈を敷衍する。
ただ、それにしても、曾野が沖縄へむかう問題意識が不明であることは否めない。書き換えそれ事態を目的とする以上に、曾野の作品から沖縄への関心を読み取ることは難しい。」
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