磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

中沢啓治(漫画家)(ニューズウィーク日本版) - goo ニュース

2009年07月01日 | 読書日記など



アメリカのコミック『マウス』の作者アート・スピーゲルマンが、「はだしのゲン」のことを賞讃している。

たしかにそうだとボクは思う。下「」引用。

「廃墟と化した広島で泣き(そして笑う)ゲン少年の姿から、人々は戦争の恐ろしさだけでなく、希望の光も同時に感じ取る。」

そして、信頼できる人とそうでない人たちも、うまくかき分けているとボクは思う……。




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中公新書448 詭弁論理学

2009年07月01日 | 読書日記など
『中公新書448 詭弁論理学』
   野崎昭弘・著/中央公論社1980年

本書は……。下「」引用。

「なまじ「議論上手」になって人に嫌われるよりは、天分を生かして「話上手」になるか、あるいは「勝てなくてもよい」という前提で議論を楽しむ「ゆとり」を身につけたほうが、はるかに好ましいのではないかと思う。この「ゆとり」を望む人々(私自身を含む)のために、本書は生まれた。-略-ただ強弁をふるうための「ハウツーもの」として利用されないことだけは、著者として希望している。-略-
  一九七六年九月二十五日
      野崎昭弘」



--宝石屋での貴婦人。1万ドルの指輪を昨日買った。
だが、気に入らないので今日2万ドルの指輪とかえてくれという。下「」引用。

「きのう私はあなたに一万ドルを払ったでしょう? 今日またこうして、一万ドルの値打ちの指輪を返したのだから、あわせて二万ドルになるじゃないの」

これでいいのだろうか?

模範解答?……。下「」引用。

「奥様、でも私どもは、昨日奥様に一万ドルの指輪をさしてあげております。今日また二万ドルの指輪をさしあげますと、あわせて三万ドルになってしまいます」

「強弁術の誕生」下「」引用。

「最初に強弁をふるったのはやはり昔の権力者であろう。「泣く子と地頭には勝てぬ」の言葉どおり、権力者が何かをいいだしが最後、無理が通って道理がひっこむのが相場であった。-略-」

最近のお坊ちゃま政治家に多いですよね。

小児型強弁……。下「」引用。

「小児病 これまでとりあげてきた、寅さんや子供がふりまわす強弁は、相手がいうことを耳に入れず、ひたすら「自分がいいたいことをいいつのる」という点に特徴がある。これを、小児型の強弁と呼ぶことにしよう。-略-」

小児病の原因……。下「」引用。

「小児型の強弁の厄介なところは「本人がそのつもりでない」というまさにその点である。極端ないい方をすれば、「妥協したくない」から妥協しないのではなくて、そもそも「妥協ということを知らない」のである。だからこそ、自分が本日只今感じていることや決心したことを率直に述べるだけで、そのこと自体はよいとしても、他の人のいうことが少しも耳に入らず、よほど露骨に反対されない限り、自分の考えを繰り返すのである。-略-」

--二分法。ペテン師といわれる元総理の得意とする手法ですね。
強弁術「現代の魔女狩り」 下「」引用。
「強権をふるっての、あるいは「悪魔のイメージ」を利用した二分法は、今では各所で使われている。「あいつはアカだから気をつけろ」とか、「保守反動」「曲学阿世」「裏切り者」「××主義者」などというレッテルによって、相手の発言(あるいはその効果)を封じこめようとする作戦は、そういう言葉に悪いイメージをもっている人たちに対して、非常に有効に働くからである。こうして、「どこがどう悪いのか、どの点は認めなければならないか」という細かい議論は吹きとばされて、「根本的にまちがっている」という結論が強調される。」

ネットでも多いですね。「反日」とか、日本人を外国人のように決めつける……。幼児的な人たち……。

「詭弁術の誕生」下「」引用。

「強弁と同じように、詭弁の誕生もまた、歴史の彼方にかすんでいて、「いつ、誰が創始した」というようなことを、確定できるわけがない。しかし詭弁を飛躍的に発達させた時期として、まずギリシャ時代を上げるのはさしつかえないであろう。ターレス、ソクラテス、アリストテレスなど、言葉を武器として真理を追究する哲学者たちが誕生したのはこの時代であるし、その流れの中に、弁論に長けた「ソフィスト」(知者、教師、詭弁家)が輩出したのもこの時代であった。」









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ヒロシマのいのちの水

2009年07月01日 | 読書日記など
『ヒロシマのいのちの水』
   指田和・文/野村たかあき・絵/文研出版2009年

図書館の説明文。下「」引用。

「1945年8月6日、広島の託児所で子どもたちの世話をしていた宇根利枝さん。あの日、生き残った者として、宇根さんには果たしたい約束がありました-。原爆慰霊碑に50年以上も献水を続けているおばあちゃんのお話。」



表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「わたしが ヒロシマに 行くたびに 会う、ひとりの おばあちゃんが います。
「まあまあ、遠いところから、こんな おばあさんに 会いにきてくれて、ありがとう。」
 目を かがやかせて、まるで ヒマワリみたいな えがおて むかえてくれるのが 宇根利枝(うねとしえ)さんです。
 いつも じょうだんを いっては、人を わらわせるのが すきな 宇根さん。でも、ときに、その にこやかな 顔が きびしい 表情に かわることが あります。あの日の 記憶〈原爆の被爆体験〉を、話すときです。
 原爆慰霊碑に、五十年以上も 清水(しみず)を そなえてきた 宇根さんの 思い--それを たくさんの 人に つたえることが、わたしの 役目だと 思いました。
          指田和」

--「●平和への願いをバトンタッチ」
青年が、宇根さんの「原爆献水」の仕事をバトンタッチしたという。









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テニアンの空-海軍七六一空の死闘-

2009年07月01日 | 読書日記など
『テニアンの空-海軍七六一空の死闘-』
   井上昌巳・著/光人社1987年

その隊におられた人が書かれた本……。



照明弾による作戦の訓練を本土でしたようだ……。下「」引用。

「超えて昭和十九年一月、夜間照明電撃訓練にうつった。これが最終の到達目標である。まず、目標艦発見とともに、指揮官機は「照明隊新劇せよ」と、同行の照明隊を先行させる。照明機は、目標上空高度千~千五百メートルで照明弾を投下し、何十万燭光もの輝きで目標艦を洋上に照らし出す。そこへ間髪も入れず、「全軍突撃せよ」で、電撃隊が突進して電撃するという訓練である。」

「襲いくるグラマン」……。下「」引用。

「やがてグラマン四機、六機としだいにその数を増して、ハゴイ飛行場へ各方向から、耳をつんざくすごい低空射撃を浴びせながら、上空を旋回乱舞しはじめた。
「たいへんなことになったぞ!」
 このぶんでは、わが第三次攻撃隊は、グラマンの邀撃されたにちがいない。空はいつしか、すっかり明けていた。-略-」

「生き地獄テニアン」

「鉄条網ごせしに米兵士からキャンディーをもらっているテニアン収容所内の子供。はたして、あの佐渡山さん一家はぶじであっただろうか。」



「あとがき」 下「」引用。

「復員以来、私は七六一空の死闘がまったく世に知られていないのを嘆き、これを歳月の流れに埋没させてしまうのは、まことに遺憾であり、ついと浮きを公刊しようと心に誓った。
 戦友が戦い、散華した戦闘の状況を、世に伝えることが、私の彼らにたいする償いであり、鎮魂になると考えたからである。
 この原稿を書いているときは、当然のことながら、戦争当時の様相をほうふつと眼前に浮かび、とくにテニアン玉砕の凄絶悲惨な状況の描写では、感情が異常にたかぶり心苦しく、何回もペンを投げたため、思わぬ遅筆となった。亡き戦友にすまないと思いながら、戦後四十二年を経て、やっとこの誓いを果たし、心の重荷がとれた感じである。
 戦闘の記録を綴りながら、馬齢六十三を数えたわたしの脳裡に去来するものは、「国家のためとは言いながら、二十歳前後で死んだ戦友たちは、いかにも若かった。そして、桜花のようにみごとに散った」という感懐である。若桜たちは、祖国の急を救わんと、決然と死に赴いたのだ。
 私の予科練同期(甲飛八期)は、四百五十五名のうち三百三十三名が戦死している。実施部隊に出てから、終戦までの二カ年に、太平洋の各戦線で七十三パーセントが空に散華したのだ。七六一空も、予科練出身者が大半を占めたが、激烈な数次の戦闘を経て、生存者は極少である。-略-
  昭和六十二年初夏
       井上昌巳」








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