『角川文庫 太平洋戦争日本の敗因6 外交なき戦争の終末』
NHK取材班・編/角川書店1995年
裏表紙に書かれてあります。下「」引用。
「絶対国防圏の戦略拠点が次々に陥落、日本の上空が米軍機に完全に支配され、敗戦は必至とみえた昭和二十年一月、大本営は「本土決戦計画」を決めた。本土での地上戦ならば一度は勝てる。一矢を報いれば、無条件降伏だけは……。
沖縄が本土決戦の捨て石とされも、住民もろとも焦土と化していた時、日本が和平工作の全てを託そうとしたソ連は、「ヤルタの密約」通りに、米ソ共同の軍事訓練を行っていた。」
「カバーの写真は、硫黄島に殺到するアメリカ軍上陸用舟艇と、終戦工作を報告する東郷外相宛ての佐藤大使の電報。」
陸軍がすすめた……。下「」引用。
「ことあと、有末は、参謀次長河辺虎四郎中将とともに四月二二日、東郷茂徳(しげのり)外相を訪ね、三人だけの密談のなかで、こう要請した。
「ソ連をして不参戦、中立の態度を保持し、和平斡旋に乗り出させよう一世一代の至芸をやってもらいたい」-略-」
ふりかえってみれば……。下「」引用。
「昭和六年一二月、第二次若槻内閣が総辞職したあとをついだのは、犬養毅内閣。-略-犬養暗殺で、八年続いた政党内閣は終わりを告げる。次の内閣は、陸軍の長老で朝鮮総督もつとめた斉藤実(まこと)に委ねられ、「挙国一致内閣」といわれた。-略-」
愚かな松岡の意見……。下「」引用。
「しかし、この枢軸体制の強化には、外務省や海軍の一部に強い反対論があった。それは、アメリカ、イギリスをはっきり敵にまわし、泥沼に入っている日中戦争の解決の道をふさぐもの゛て、アメリカとの戦争が避けられなくなるという、冷静な見方に基づくものだった。だが松岡は、「このままでは、アメリカから侮辱を招き関係を悪化させるだけである。いま毅然たる態度をとり、一国でも多くの国と提携してアメリカに対抗することが緊要だ」として、三国同盟を推し進めた。そして、近衛が一方ですすめようとしたアメリカとの交渉には消極姿勢をとり、日ソ関係の強化と、軍部が考えていた武力による南方進出論を主張した。」
今も、似たよう人たちがいる……。
沈黙を強いられた和平派。吉田茂逮捕! 下「」引用。
「この年二月、近衛文麿は重臣のひとりとして、共産革命を恐れる立場から戦争の早期終結を昭和天皇に上奏していたが、四月一五日になって、この上奏文の写しを所持していた元駐英大使で自由主義者の吉田茂をはじめ数人の和平派が、憲兵隊に検挙されたのである。検挙の手はやがて近衛らにも及ぶかと見られたが、結局、政治的判断で中止された。和平思想を封殺するため憲兵隊や内務省はこうした弾圧を民間でも徹底して行ない、世論を本土決戦へと誘導していった。」
教育はおそろしい……。下「」引用。
「「教育はおそろしい。だからこそ、正しい教育をしていかなければ」と、戦前、国民学校などで教鞭をとった経験のある中村文子さんは言った。」
正しい教育は今も行われていない。
--闇教育、思考停止することを教えている……。
「軽視された浅井報告」 下「」引用。
「浅井中佐は五月一日、新京の関東軍総司令部に立ち寄って、見てきたばかりのソビエト軍の輸送状況を報告し、女性の緊迫に注意を促そうとした。
「大変なことになる、ソ連が出てくると、私は言ったんです。七月いっぱいで集中輸送は終わる。集中輸送が終わったら、いつ出てきてもおかしくない。いつソ連が攻勢に出てきてもおかしくない状況です、と強調したのです。私は八月初めだと、これでもう間違いないと思っていました」
ところが、関東軍の意外な反応に、浅井中佐は愕然とする。」
ないと、希望的観測ですすめていく……。
今の原子力政策といっしょですね。
「スターリンのシベリア抑留命令」下「」引用。
「平成五年一○月、日本を訪問したエリツィン大統領は、細川首相ら日本側との会議の席上、こう語って頭を下げた。平成三年に来日したゴルバチョフ大統領は、この問題で「同乗の念」という表現を使ったが、エリツィン大統領はそれよりさらに踏み込んで「謝罪」し、この問題をひときわ重く受け止めていることを印象づけた。-略-」
密約説について。下「」引用。
「なぜなら「密約」説は、スターリンがなぜ日本兵の早期復員を規定したポツダム宣言を無視して捕虜のシベリア抑留に踏み切ったのかという、大きな疑問にねざしていると同時に、最大の仮想敵国であったソビエトに最後になってすり寄っていった日本政府・軍部への強い不信感にも増幅されているように思うからである。終戦時の日本の対ソ外交が、史実として現実離れした愚かな選択であった以上、国の指導者に対する不信感の裏返しとして、「密約」の疑惑も、簡単に消えることはない。」
Index
INDEX
もくじ
NHK取材班・編/角川書店1995年
裏表紙に書かれてあります。下「」引用。
「絶対国防圏の戦略拠点が次々に陥落、日本の上空が米軍機に完全に支配され、敗戦は必至とみえた昭和二十年一月、大本営は「本土決戦計画」を決めた。本土での地上戦ならば一度は勝てる。一矢を報いれば、無条件降伏だけは……。
沖縄が本土決戦の捨て石とされも、住民もろとも焦土と化していた時、日本が和平工作の全てを託そうとしたソ連は、「ヤルタの密約」通りに、米ソ共同の軍事訓練を行っていた。」
「カバーの写真は、硫黄島に殺到するアメリカ軍上陸用舟艇と、終戦工作を報告する東郷外相宛ての佐藤大使の電報。」
陸軍がすすめた……。下「」引用。
「ことあと、有末は、参謀次長河辺虎四郎中将とともに四月二二日、東郷茂徳(しげのり)外相を訪ね、三人だけの密談のなかで、こう要請した。
「ソ連をして不参戦、中立の態度を保持し、和平斡旋に乗り出させよう一世一代の至芸をやってもらいたい」-略-」
ふりかえってみれば……。下「」引用。
「昭和六年一二月、第二次若槻内閣が総辞職したあとをついだのは、犬養毅内閣。-略-犬養暗殺で、八年続いた政党内閣は終わりを告げる。次の内閣は、陸軍の長老で朝鮮総督もつとめた斉藤実(まこと)に委ねられ、「挙国一致内閣」といわれた。-略-」
愚かな松岡の意見……。下「」引用。
「しかし、この枢軸体制の強化には、外務省や海軍の一部に強い反対論があった。それは、アメリカ、イギリスをはっきり敵にまわし、泥沼に入っている日中戦争の解決の道をふさぐもの゛て、アメリカとの戦争が避けられなくなるという、冷静な見方に基づくものだった。だが松岡は、「このままでは、アメリカから侮辱を招き関係を悪化させるだけである。いま毅然たる態度をとり、一国でも多くの国と提携してアメリカに対抗することが緊要だ」として、三国同盟を推し進めた。そして、近衛が一方ですすめようとしたアメリカとの交渉には消極姿勢をとり、日ソ関係の強化と、軍部が考えていた武力による南方進出論を主張した。」
今も、似たよう人たちがいる……。
沈黙を強いられた和平派。吉田茂逮捕! 下「」引用。
「この年二月、近衛文麿は重臣のひとりとして、共産革命を恐れる立場から戦争の早期終結を昭和天皇に上奏していたが、四月一五日になって、この上奏文の写しを所持していた元駐英大使で自由主義者の吉田茂をはじめ数人の和平派が、憲兵隊に検挙されたのである。検挙の手はやがて近衛らにも及ぶかと見られたが、結局、政治的判断で中止された。和平思想を封殺するため憲兵隊や内務省はこうした弾圧を民間でも徹底して行ない、世論を本土決戦へと誘導していった。」
教育はおそろしい……。下「」引用。
「「教育はおそろしい。だからこそ、正しい教育をしていかなければ」と、戦前、国民学校などで教鞭をとった経験のある中村文子さんは言った。」
正しい教育は今も行われていない。
--闇教育、思考停止することを教えている……。
「軽視された浅井報告」 下「」引用。
「浅井中佐は五月一日、新京の関東軍総司令部に立ち寄って、見てきたばかりのソビエト軍の輸送状況を報告し、女性の緊迫に注意を促そうとした。
「大変なことになる、ソ連が出てくると、私は言ったんです。七月いっぱいで集中輸送は終わる。集中輸送が終わったら、いつ出てきてもおかしくない。いつソ連が攻勢に出てきてもおかしくない状況です、と強調したのです。私は八月初めだと、これでもう間違いないと思っていました」
ところが、関東軍の意外な反応に、浅井中佐は愕然とする。」
ないと、希望的観測ですすめていく……。
今の原子力政策といっしょですね。
「スターリンのシベリア抑留命令」下「」引用。
「平成五年一○月、日本を訪問したエリツィン大統領は、細川首相ら日本側との会議の席上、こう語って頭を下げた。平成三年に来日したゴルバチョフ大統領は、この問題で「同乗の念」という表現を使ったが、エリツィン大統領はそれよりさらに踏み込んで「謝罪」し、この問題をひときわ重く受け止めていることを印象づけた。-略-」
密約説について。下「」引用。
「なぜなら「密約」説は、スターリンがなぜ日本兵の早期復員を規定したポツダム宣言を無視して捕虜のシベリア抑留に踏み切ったのかという、大きな疑問にねざしていると同時に、最大の仮想敵国であったソビエトに最後になってすり寄っていった日本政府・軍部への強い不信感にも増幅されているように思うからである。終戦時の日本の対ソ外交が、史実として現実離れした愚かな選択であった以上、国の指導者に対する不信感の裏返しとして、「密約」の疑惑も、簡単に消えることはない。」
Index
INDEX
もくじ