磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

ジュニア文学館宮沢賢治-写真・絵画集成-2 宮沢賢治の童話

2009年05月10日 | 読書日記など
『ジュニア文学館宮沢賢治-写真・絵画集成-2 宮沢賢治の童話』
   宮沢賢治・著/早乙女勝元・編著/日本図書センター1996年

大きくて、重くて、字が小さく、高い本です。
--初版本のカラー写真などが目をひきます……。



宮沢賢治の偉大さを知る人たちは、反戦や環境問題で活躍している人たちが多いです。

その一人に、この本の編者の早乙女勝元も入るのではないでしょうか。

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宮沢賢治の思想は、人を幸福にするためのものですね……。

彼が夢をみる人だけでないことは、農業によっても証明されていますね。

日本の農業の将来は心配ですね。

でも、宮沢賢治のような人はいるのでしょうか?

利権を守るために、がんじがらめの人物とちがって、宮沢賢治は素晴らしいの一言ですね。

--以前、日本でつくられた、宮沢賢治の映画はひどいものでした。

市場原理主義者などにいわせたら、宮沢賢治には価値がないのかもしれません……。

いや、本が売れるからいいのか?

でも、多くの人たちは、本が売れるから、宮沢賢治がいいとは思っていません。

売れようが、売れまいが宮沢賢治の本はすばらしいのです。

事実、宮沢賢治の本は、宮沢賢治が生きいるころには、売れなかったという……。

だが、その価値を知っている人たちは、伝えていきますね。

外国でもっとも有名な日本の作家としても、宮沢賢治の名前があがる時もありますね……。

賢治は本当の勇気をくれます!

--その勇気をもらったら、市場原理主義者などではいられないことでしょう……。






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戦争があった日のはなし1 チコ、あの空をとべ

2009年05月10日 | 読書日記など
『戦争があった日のはなし1 チコ、あの空をとべ』
    菊池敬一・作/鈴木たくま・絵/太平出版社1984年

BC級戦犯として逮捕され巣鴨プリズンに入れられていた死刑囚のことが書かれてあります。
--アメリカ人たちにもハートが……。



表紙の裏(右ソデ)に書かれてあります。下「」引用。

「「チコ、おれは、やがて死刑になるんだよ。
おまえは、おれのぶんまで、
自由にあの空をとんでおくれ。」
刑務所の、くらくて小さなへやのなかで、
安夫は、一羽の子スズメに語りかけました。
戦争のさなかにおきた、
あの、信じられないようなできごとを、
なんどもなんども思いだしながら……。」

原爆のうわさ……。下「」引用。

「しかし、そのおそろしい被害のうわさは、みるみる日本じゅうにひろまっていきました。
 かくしきれなくなった軍部は、やっと、広島と長崎におとされた爆弾が、いままでとはべつな「新型爆弾」である、と発表しました。
 長崎に原子爆弾がおとされた日から三日後の、八月十二日のことでした。金田少尉が、安夫たち勤務者全員を集合させました。
 少尉が興奮しているようすから、みんなは、ただごとではないことがおきたのだ、と思いました。」

原爆を投下したアメリカは鬼! 下「」引用。

「少尉は、
「広島と長崎におちた爆弾は、『特殊爆弾』である。これをおとしたアメリカ人は、鬼とおなじで、人間ではない。」
と、軍刀をにぎりしめた手をふるわせ、いいました。」

プリズン(刑務所)にいれられた安夫。下「」引用。

「十二月十七日、安夫は、東京にある占領軍の巣鴨プリズン(刑務所)にいれられました。
 巣鴨プリズンは、大きな建物が三つあって、たかいへいとバリケードで厳重にかこまれていました。機関銃をもったなん人もの監視兵が、きびしく監視していました。夜は、サーチライトがまぶしくてらして見はっていました。-略-」

アメリカ兵の虐待……。下「」引用。

「ところが、監視のアメリカ兵が、ときどきわざと食事をけとばしたりして、食べさせてくれないこともありました。
 それだけではありませんでした。
 ちょっとでも気にくわないことがあると、わけのわからない大声でどなりながら、ようしゃなくなぐったりけったりしました。
 なぐったりけったりするのは、監視兵だけではありませんでした。
 巣鴨プリズンには死刑になるぐらいわるいことをした日本軍の囚人がいる、というので、毎日のように占領軍のひとたちが、かわるがわる見物にくるのです。
 へやのまえには、その囚人がどういう罪で刑務所にはいっているかをかいたふだが、さげてありました。」

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自殺する人々……。下「」引用。

「ところが、この入浴のとき、自殺をはかるひとがつぎつぎにではじめたのです。
 ひげをそるためにわたされた安全カミソリで、じぶんの首の欠陥をきって自殺をはかるのです。
 あわてた占領軍は、入浴のときの監視兵をふやして、それをふせごうとしました。入浴場の四すみにひとりずつ、四人もの監視兵がたって、囚人たちを見はりました。-略-」

それでも、自殺する人……。下「」引用。

「安夫の右どなりでひげをそっていた囚人が、突然、うう、とうなってうつぶせになりました。石けんのあわにまじって、赤い血が、安夫のほうにながれてきます。
 監視兵がふたり、大声をあげて走ってきて、その囚人をけりつけながら、大声で仲間をよびました。
 入り口にたっていた監視兵は、ピーとふえをふきました。
 五、六人の監視兵が、浴室を走りこんできました。
 安夫は、ぼんやりと、自殺をはかった囚人が、血まみれのままひきずりだされていくのを見ていました。
 その囚人の体じゅういちめんに、むらさき色のはん点がついていました。監視兵や占領軍のひとたちになぐられたきずあとだったのです。」

毛布でヒモをつくって自殺しようと試みる安夫……。
--しかし、できない安夫……。

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子スズメのチコと仲良くなる安夫。

面会がゆるされると死刑の日が近づいたと噂されていた……。下「」引用。

「八月になって、まもない日でした。
 とつぜん、安夫に、家族との面会がゆるされたのです。
 安夫はびっくりしました。死刑がちかづくと、家族といちど面会をゆるすそうだ、ときいていたのです。-略-」

面会には家族だけでなく、アメリカ人もいた。下「」引用。

「安夫は、白いりっぱな服をきたアメリカ人を見たとき、はっと思いだしました。
 西山鉱山の捕虜のひとりであった、カールだったのです。」

代表カール……。下「」引用。

「西山鉱山で安夫が監督した、捕虜のなかにカールが、まだ日本にいたというのです。正子たちは、ようやくのことでカールを見つけて、安夫が死刑を求刑されていることを話したのです。
 カールはびっくりして、じぶんたちの恩人である安夫を、ぜったい死刑にしてはならない、といったのです。
 そして、仲間たちに連絡をとって、代表三人ほどで、裁判の無罪の証言をすることになった、というのです。」

一九四七年(昭和二十二年)十一月十三日、釈放……。








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戦争があった日のはなし8 ソウルの青い空

2009年05月10日 | 読書日記など
『戦争があった日のはなし8 ソウルの青い空』
   斎藤尚子・作/井口文秀・絵/太平出版社1985年

表紙の裏(右ソデ)に書かれてあります。下「」引用。

「日本が戦争にまけて--、
道子たちは、
すみなれたソウルから
ひきあげなければならなくなりました。
やさしかった朝鮮の少女、
「君江(きみえ)さん」の
ほんとうのなまえもしらないまま……。
  --ソウルの青い空よ、さようなら。」



そのとき……。下「」引用。

「日本が第二次世界大戦にまけたとき、
ソウルにいた日本人も、
みんな、
日本にひきあげなければなりませんでした。
八さいの少女、道子も、
そのおおきなながれのなかにいました。」

日本国は朝鮮の人たちを支配していた……。下「」引用。

「第二次世界大戦で日本がまけた日、国民学校(いまの小学校)三年生だったわたしは、家族といっしょに、ソウルにすんでいた。
 日本が、朝鮮(いまの大韓民国と朝鮮民主主義共和国)をうばい、植民地にしておさめていたからだ。
 すんでいた官舎は、ソウル駅とつぎの龍山駅とのあいだで、漢江(ハンガン)のながれや、むこう岸のポプラがみえる丘にあった。-略-」

朝鮮の人に日本名を名乗らせていた……。下「」引用。

「君江さんは、朝鮮人のおねえさんで、いえのことをてつだっていた。-略-としは、十八さいか十九さいかだった。」

そして、食料難……。下「」引用。

「やさいは、官舎のひろいにわで、おもに父さんがつくった。」

強制にも負けなかった人……。下「」引用。

「五年まえの『創氏改名』で、先祖からつづいている朝鮮人のなまえをすてて、日本名にかえろ、とやかましくいわれても、とうとう、金(キム)という名でとおしたのだからねえ。」

そして、ガマンのみ……。下「」引用。

「町内の総代(そうだい)さんが、一けん一けん、こっそりとまわってきなさったですよ。-略-
 こんやは、なにをされてもじっとがまんしてください。
 日本人らしく、がまんしてください。そうしないと、日本人と朝鮮人のあいだで、たいへんなそうどうにひろがってしまいかねません。
 朝鮮人のあいだには、三十六年間の日本人のやりかたに、たえにたえてきたおもいがいありますからね、ということだったですよ。」

日本人は電車に乗れなかった……。下「」引用。

「どの電車も、日本人はのせんとです。
 あのはたは、日本人が朝鮮をうばいとるまえの、朝鮮のはたとですよ。」

ひどい政府を持てば、そうされることだろう……。
--今もかわらぬ国のかたち……。

朝鮮人は朝鮮人のために働け! 下「」引用。

「わたしがまた、日本人のいえのてつだいをしている、といっておこったのです。
「朝鮮人は、これから朝鮮人のためにはたらくべきだ。それなのになによ。いままで朝鮮人をくるしめてきた日本人のいえに、まだいるなんて。はやく、さっさとそこをでなさい。)というのです。」

朝鮮人を同じ人類としてこなかった日本人……。

君江は、引き上げるのに、赤ん坊や小さな子は危険だから、預かるとまでいった。
だが、父は親が面倒をみるものだと供に帰国。

「あとがき」にこう書かれてある。下「」引用。

「このおはなしは、みなさんがうまれるずっとまえのこと、-略-わたしが、子どもたちとひきあげてきてから四十年たちました。」

つまり、著者は当時、子どもではなかった……。
子どもをもっていた母であったということだろう……。








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さようならカバくん

2009年05月10日 | 読書日記など
『さようならカバくん』
    早乙女勝元・作/鈴木義治・絵/金の星社1988年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「昭和二十年の春のことでした。
二年生の大三郎は、空しゅうで
ひなんした先の動物園で、
二とうのカバとなかよしになりました。
カバの大太郎と京子……。
でも、せんそうは、
おとなしいカバくんたちまで--。」



本当は死ななくってよかった……。下「」引用。

「カバを、見たことがあるかい?
動物園で、ゾウにつづいて、大きな動物さ。
大きな体のわりに、気はやさしくて、
いつも、水の中にもぐっている。
そのカバは、ほんとは、しななくてもよかったんだ。
空しゅうさえ、なければ……。
せんそうさえ、なければ……。」

原作では、本文はこう始まる……。下「」引用。

「三年生の秋の遠足は、上野の動物園でした。」

ノッポの大三郎先生がカバの大太郎のことを話しはじめる。下「」引用。

「昭和二十年、せんそうも終りに近づいたころ、ぼくは、とうじの国民学校(今の小学校)の三年生でした。-略-そのころ、三年生で、東京にのこっている子など、めったにいません。-略-これを、学童疎開といったのです。
 ところが、ぼくだけは、ぽつんと家にとりのこされました。チビで、ヤセで、体が弱く、冬になると、かぜばかりひいていたからですが、ほんとうはちがうのです。-略-」

おじさんが、動物園の仕事をしていたという……。下「」引用。

「動物がしあわせでない時は、にんげんだってしあわせにはなれないんだよ。だからね、にんげんがしあわせになるには、カバもしあわせでなくっちゃ……。」

動物園の人も戦争へ。下「」引用。

「大太郎と京子に、
「この次は、平和な時に、生れておいで、生れたら、その手で、しっかり水をかいて、きっと泳ぎあがってくるんだよ。」
と、つぶやいたことも。
 ひげのおじさんは、あのあと、すぐにへいたいにいってしまって、それっきりついに、帰ってこなかったのです。ぼくのとうさんと同じに--。」

「◆あとがき」より。下「」引用。

「「ですからね。もし、三月十日の大空襲がなければ、二頭のカバは、戦後まで生きのびられたはずですよ。」
 と、しみじみとした声で語ったのは、動物園水族館協会事務局長の小森篤さんでしたが、わたしは、そのことばがいつまでも胸に残って、消えることがありませでした。-略-」


さようならカバくん-アニメ絵本-






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さようならカバくん-アニメ絵本-

2009年05月10日 | 読書日記など
『さようならカバくん-アニメ絵本-』
    早乙女勝元・原作/
      こぶしプロダクション・企画/金の星社1989年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「むかし、上野動物園に、大太郎と京子っていうカバがいたんだよ。でっかい体をしていて、えさだって、ものすごくたべるんだ。それなのに、えさも水を、とりあげられてしまったんだ。京子は、さいごに、涙をながしていったけ……。」



戦争中、上野動物園で、ゾウが殺された話は有名ですね。

実は、カバも殺されてたという。

そんなカバな! いや、バカなといっても……。

これも事実……。

しかし、時期は異なる……。下「」引用。

「ゾウやライオンがころされたのは、昭和十八(一九四三)年たったけれど、そのとき生きのびたカバは、昭和二十年になってから、ひっそりところされたんだ。
 そのカバの名前は、大太郎と京子。京子のほうがおとなで、大太郎はまだ子どもだから、小さかった。-略-」

「●原作者あとがき--父母と教師の方がたへ
 宇宙船地球号の乗組員--早乙女勝元」 下「」引用。

「 戦争でひどいめにあうのは、人間だけではありません。-略-
 さらに、昭和二十年になると、三月十日の東京大空襲のあとに、二頭のカバが、ゾウやライオンと同じ運命をたどることになりました。水をぬかれ、エサをとりあげられたカバの大太郎と京子です。十九歳の大太郎は十五日間、二十八歳の京子は三十七日間をがんばりぬいて、ついに息をたえたのです。どろどろの“血の汗”を流しながら……。
 わたくしは、それらを動物園関係の方からきいて、かわいそうなカバくんのことも忘れてはいけないのだと思い、『さよならカバくん』という本を書きました。それが、とてもすてきな短編アニメ映画となり、映画が完成した日に、前上野動物園園長の中川志郎さん、映画を監督した大澤豊さんと、話すひとときがありました。-略-
 みんなで、かわいそうなカバくんたちをしのんだひととき、宇宙船地球号が、いつまでも平和な未来に飛行していくことを、わたくしは、心から願わずにはいられませんでした。
      (一九八九年六月)」

裏表紙の裏(左ソデ)に書かれてあります。下「」引用。

「空しゅうの、そして、戦争のためにころされていった、たくさんの動物たち……。もうじゅうではなかったおとなしいカバのかなしみは、小学校三・四年生向きに書かれた原作本「さよならカバくん」(金の星社)にも描かれています。」


さようならカバくん








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