『原爆民衆史』
長岡弘芳・著/未来社1977年
原爆小文庫をつくられた長岡弘芳の本です。
いろんなことをされていたようです。
日本政府の顔というのは、二つの顔をもっていると書いておられます。下「」引用。
「ところでさて、日本政府は二つの顔をもつ。一つは戦争放棄条項を含む憲法のもと平和愛好国家としてのそれであり、もう一つは、にもかかわらず既に世界有数の軍隊を保持し、自衛の為の核武装は憲法違反にならぬと公式言明を繰り返し、従って中国をはじめアジア諸国から、再度の軍国主義化が厳しく警戒されている国家としての顔である。」
1953年、杉の子会がつくられ、1954年《水爆禁止署名運動杉並協議会》が結成されという。
きのこ会の活動についても書かれていました。
栗原貞子との文通や、交流が書かれてありました。
沖縄での小原爆展を1969年にひらかれたようです。
沖縄で原爆を伝えるということは大変困難であったようです。同。
「五二年、前年設置されたばかりの琉球大学学生たちは、那覇市内で「アサヒグラフ・原爆被害の初公開」号をパネルに仕立て、「原爆展」を開催する。そのことが流大初の学生処分に際し、処分理由の一つとなった。」
まだ、日本に復帰していない時代ですね。
秋月辰一郎のことも書かれてありました。同。
「私が秋月さんを拝見したのは一九六八年夏、《長崎原爆展》が東京で開かれたとき、秋月さんの講演を朝日講堂できいたのが最初である。当時は石原慎太郎なんかが、しきりに《核アレルギー解消論》などを唱えていたころで、そのことに触れ秋月さんが、
〈アレルギーとは医学上の用語だ。どういう状態をアレルギーというのかは、専門家である私の方がよく知っている。素人が生半可にむやみに使うのはよくないことだ〉と、持ち前の淡淡とした口調ながら、そこだけは頬を紅潮させ声を高められたのが、今も強く印象に残っている。」
大田洋子のことも書かれてありました。同。
「数年前、あなたの作品を探すべく、私は古本屋街を歩き廻りました。時にあなたの作品はないかと訊ねてみる。すると古本屋のおやじ達は、戦後も生々しいころ心中して果てた人気作家の元愛人、当時父に関する手記めいたものを発表していたその娘、あるいは過去に自らのよろめきのしかじかを作品化していたあなたと同姓の某女流作家、等々の名とあなたとを混同し私に告げたものでした。以後私は黙ってあなたの作品を探すことに決めたのでした。」
やはり大田洋子の評価は高いです。
正田篠枝さんの『さんげ』のことも書かれて有りました。
原子力についても書かれてありました。同。
「今年(七六年)早々に強行されるはずであった、原子力委員会と日本学術会議による「原子力シンポジウム」、つまり中央公聴会は、現地反対運動の強力な抵抗により遂に聞くことができなかった。
されば、というわけでもないだろうが、去る九月一一・一二日に開催された日本平和学会第四回研究大会は、第一日午後のプログラムにシンポジウム「原子エネルギーの未来」を組んだ。
広島女学院大学の庄野直美、原子力産業会議の事務局長・森一久が座長、報告者は板倉哲郎(原子力発電会社)、小野周(東京大学)、岸田純之助(朝日新聞)、田島英三(立教大学)、服部学(立教大学)、安田八十五(神戸商科大学)の五人。
事情通は顔ぶれを見るなり、「これはウサンくさい」と言下に断定したが、そうした人々によるシンポジウムであったのである。」
バーバラ・レイノルズさんが、ウィルミントン大学で原爆文庫をつくったという。
その仕事で、ラマーズさんと、著者は文通していたそうだ。
もくじ
長岡弘芳・著/未来社1977年
原爆小文庫をつくられた長岡弘芳の本です。
いろんなことをされていたようです。
日本政府の顔というのは、二つの顔をもっていると書いておられます。下「」引用。
「ところでさて、日本政府は二つの顔をもつ。一つは戦争放棄条項を含む憲法のもと平和愛好国家としてのそれであり、もう一つは、にもかかわらず既に世界有数の軍隊を保持し、自衛の為の核武装は憲法違反にならぬと公式言明を繰り返し、従って中国をはじめアジア諸国から、再度の軍国主義化が厳しく警戒されている国家としての顔である。」
1953年、杉の子会がつくられ、1954年《水爆禁止署名運動杉並協議会》が結成されという。
きのこ会の活動についても書かれていました。
栗原貞子との文通や、交流が書かれてありました。
沖縄での小原爆展を1969年にひらかれたようです。
沖縄で原爆を伝えるということは大変困難であったようです。同。
「五二年、前年設置されたばかりの琉球大学学生たちは、那覇市内で「アサヒグラフ・原爆被害の初公開」号をパネルに仕立て、「原爆展」を開催する。そのことが流大初の学生処分に際し、処分理由の一つとなった。」
まだ、日本に復帰していない時代ですね。
秋月辰一郎のことも書かれてありました。同。
「私が秋月さんを拝見したのは一九六八年夏、《長崎原爆展》が東京で開かれたとき、秋月さんの講演を朝日講堂できいたのが最初である。当時は石原慎太郎なんかが、しきりに《核アレルギー解消論》などを唱えていたころで、そのことに触れ秋月さんが、
〈アレルギーとは医学上の用語だ。どういう状態をアレルギーというのかは、専門家である私の方がよく知っている。素人が生半可にむやみに使うのはよくないことだ〉と、持ち前の淡淡とした口調ながら、そこだけは頬を紅潮させ声を高められたのが、今も強く印象に残っている。」
大田洋子のことも書かれてありました。同。
「数年前、あなたの作品を探すべく、私は古本屋街を歩き廻りました。時にあなたの作品はないかと訊ねてみる。すると古本屋のおやじ達は、戦後も生々しいころ心中して果てた人気作家の元愛人、当時父に関する手記めいたものを発表していたその娘、あるいは過去に自らのよろめきのしかじかを作品化していたあなたと同姓の某女流作家、等々の名とあなたとを混同し私に告げたものでした。以後私は黙ってあなたの作品を探すことに決めたのでした。」
やはり大田洋子の評価は高いです。
正田篠枝さんの『さんげ』のことも書かれて有りました。
原子力についても書かれてありました。同。
「今年(七六年)早々に強行されるはずであった、原子力委員会と日本学術会議による「原子力シンポジウム」、つまり中央公聴会は、現地反対運動の強力な抵抗により遂に聞くことができなかった。
されば、というわけでもないだろうが、去る九月一一・一二日に開催された日本平和学会第四回研究大会は、第一日午後のプログラムにシンポジウム「原子エネルギーの未来」を組んだ。
広島女学院大学の庄野直美、原子力産業会議の事務局長・森一久が座長、報告者は板倉哲郎(原子力発電会社)、小野周(東京大学)、岸田純之助(朝日新聞)、田島英三(立教大学)、服部学(立教大学)、安田八十五(神戸商科大学)の五人。
事情通は顔ぶれを見るなり、「これはウサンくさい」と言下に断定したが、そうした人々によるシンポジウムであったのである。」
バーバラ・レイノルズさんが、ウィルミントン大学で原爆文庫をつくったという。
その仕事で、ラマーズさんと、著者は文通していたそうだ。
もくじ