ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





お茶の水女子大学附属幼稚園。文京区大塚2-1
1994(平成6)年11月12日

附属幼稚園の園舎は、お茶の水大学本館の東に、南北方向は本館と同じ長さで造られている。平屋ではあるが幼稚園としては大きい建物だ。1931(昭和6)年6月に竣工したRC造平屋の建物。外観はスクラッチタイル貼の外壁、四角い窓など、本館と同様のアール・デコ風のデザインで、北側の玄関が立派だ。
お茶の水学術事業会会報ellipse平成20年5月』には、「基礎が深く丈夫に作られている点、 内部の天井がとても高い(保育室は3.35m、中廊下は4.15m)」ことを強調して、幼稚園らしい装飾として、玄関ホール上の花のレリーフ、屋上のパラペットのうさぎとかめのグリル、各保育室の出入り口上部のステンドグラスを挙げている。『春秋堂日録>お茶の水女子大学付属幼稚園(2014.02.25)』にステンドグラスの写真が載っている。
2008(平成20)年3月、3カ所ある砂場とともに国の登録有形文化財に登録登録された。
この幼稚園は日本一古い幼稚園で、設立は1879(明治9)11月。「東京女子師範学校附属幼稚園」がそれで、JR御茶ノ水駅の対岸、東京医科歯科大学の場所である。永井荷風が1884(明治17)年からほぼ1年間通った。

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お茶の水女子大学講堂。文京区大塚2-1。1994(平成6)年11月12日

本館はほぼ北向きに正面を向けて、その中心に正面玄関がある。講堂は正面玄関の後ろに南側に突き出すように建てられている。本館と一体のものなので、1932(昭和7)年竣工、設計=文部省、施工=清水組であろう。RC造2階建て、本館と同様外壁はスクラッチタイル貼り、腰壁は万成石(まんなりいし)を貼っている。2階の窓が2連のアーチ窓で、本館が四角い窓を並べてもっぱら合理的な感じがするのに対して、やわらかい雰囲気を出している。
この講堂には「徽音堂(きいんどう)」という名称がついている。また、お茶の水大の学園祭は「徽音祭」という。国立大学とはいえ、女子大学に男が立ち入るのは躊躇してしまうが、徽音祭のときなら堂々と入っていける。



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お茶の水女子大学本館(正面)
文京区大塚2-1
1994(平成6)年11月12日

2008年3月、お茶の水大の本館、講堂、附属幼稚園、表門の4点が国指定文化財に登録された。これら4点がお茶の水大に残る戦前築の建造物なのだろう。本館と講堂は一体の建物のようにも思えるが、大勢に従って別の建物ということにしておく。
お茶の水大の前身である東京女子高等師範学校はJR御茶の水駅の対岸、東京医科歯科大学のある場所にあった。関東大震災で焼失し、1928(昭和3)年に文部省より現在地を交付された。
関東大震災とお茶の水女子大学本館』によると、本館は1932(昭和7)年8月31日に竣工した。建築を担当したのは文部省建築課。「チームは建築課長の柴垣鼎太郎、設計掛長の高橋理一郎、そして設計者の田中徳治」とある。施工は清水組。RC造3階建てでコの字型平面、外壁はスクラッチタイル貼り。正面中央においた玄関を中心に左右対称。その玄関の上の壁を白くしてレリーフで飾っている。目立った装飾はその部分だけである。



北に向いた正面玄関の後ろに2階建ての講堂が伸びている。上右写真の右の2階建て部分がそれ。左写真は中庭から見た西翼。

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NTT大塚電話局別館。文京区大塚4-44。2006(平成18)年12月13日

春日通りと不忍通りが交わるのが大塚三丁目交差点。そのすぐ北、春日通り沿いに「小石川東京病院」がある。2007年4月に「日本通運東京病院」を引き継いだ病院だ。2017年4月末で建て替えのため休業したようである。あるいは廃業だろうか。その裏に「NTT大塚電話局別館」が建っていた。
消えた近代建築>NTT大塚ビル別館』によると、逓信省の「大塚分局」として、1925(大正14)年に建った。昭和2年3月に、自動式(ダイヤル式)で開局したという。外観は「NTT本所別館」(墨田区菊川)や「NTT茅場兜電話局」(日本橋富沢町)と同様のデザインだ。
電話局の写真館>NTT東日本|大塚ビル別館』というサイトで、10枚ほどの写真が見られる。電電公社のマークがある境界石があるとは気が付かなかった。
2008(平成20)年に解体され、現在は「ジオ文京大塚仲町」(2011年10月築、5階建て52戸)というマンションに替わった。





NTT大塚電話局別館。文京区大塚4-44。2006(平成18)年12月13日

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旧磯野家住宅。文京区小石川5-19。2009(平成21)年9月2日

春日通りの茗荷谷駅前交差点から湯立坂を下り始める右(東)に、大谷石の石垣が続く。「旧磯野家住宅」の屋敷である。施主は磯野敬(いそのけい、1868-1925年)という千葉県夷隅出身の明治の実業家で衆議院議員もやった人。「山林王」と言われたというから事業はそういう方面だったのだろう。(『ウィキペディア>旧磯野家住宅』)
建築に際して磯野は北見米造という棟梁を選んだ。当時北見は21歳だったという。北見への注文は「寺と仏像が似合い、地震に強く、火事で燃えない家」というもので、北見は「構造は寺院式、組み方は耐震式、外回りは耐火式」に決めた。1909(明治42)年から8年かけて1912(大正元)年に竣工した。関わった職人は100人になるという。完成したときは壁と屋根に張られた銅板が光り輝き、「銅(あかがね)御殿」と大評判になった。(『出会いたい東京の名建築』三舩泰道著、新人物往来社、2007年、2000円)



国指定文化財等DB』には、「磯野は建築趣味を有していたようで、晩年の大正11年には、東京帝国大学建築学科の聴講生となり、野田俊彦の紹介により、建築学会准員にもなっている。」とある。野田俊彦は、当ブログ前回に、大塚女子アパートの設計者として出てきたばかりの名前だ。

今はどうなっているか知らないが、撮影時は屋敷の南東に駐車場があり、そこから母屋の正面が眺められた。

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