ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




鎌倉飯店・繁茂。雪ノ下1-12。2004(平成16)年4月7日

「そばや繁茂(はんも)」は若宮大路の北端、鶴岡八幡宮前交差点のそばにある店で、建物は改装されたが残っている。銅板張りの看板建築は今の鎌倉ではほとんど見られないので、貴重なものではないかと思っていたのだが、5年くらい前らしいが、手打ち蕎麦の店らしい外観に改装されてしまった。観光客のほとんどは寺院建築には目を向けても、商店は売っているものが重要で建物そのものには無関心である。そういう客を相手にする以上、建物の歴史を伝えたところでしょうがないのだろう。
写真の、改装前の建物は看板建築といっても、二階ベランダから後退した二階の壁が銅板葺きになっているもの。壁上部の麻の葉模様、左右両端の柱形上部の藤など凝った銅板ワークが施されている。ベランダにはサンルームが造られている。増築したものだろうか? その屋根はちゃんとした洋風の造りらしく、最初から造られたようにも見える。
鎌倉飯店はまず観光客は入りそうもない店構えだ。地元の人やそこで働いている人を相手の店だろう。「鎌倉らーめん」の幟がある。単にこの店で出すラーメンのことなのだろうが、観光客にも入ってもらいたいという意志の表れだろう。

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照井歯科医院。文京区小石川1-27
2007(平成19)年2月19日

当ブログ前回の小石川歯科医院があったところから少し西へいった並び。こちらは現役の洋館の歯科医院だ。『日本近代建築総覧』に「照井医院、小石川1-27-11、構造=木造2階建」で載っている。ネット上では建築年を「大正2・3年頃」「大正初期」「大正期」などとある。大正といっても関東大震災後ではないかと思うのだが、明治44年築の遠藤医院(消えた近代建築>遠藤医院)の例もあるから大正初期で間違いではないのかもしれない。
横の、白く(正確には明るいグレー?)塗った下見板の壁と縦長の小さい上げ下げ窓が洋館らしい造形だが、正面の荒く黒っぽいモルタル壁もいい味を出している。正面の窓、ドア、石の腰壁、古い看板などの配置が絶妙である。



佐藤紙工。小石川1-27。2007(平成19)年2月19日

照井歯科の隣は銅板貼り看板建築の二軒長屋。写真の通りは、白山通りから柳町小学校の西の通りの角までが、空襲での焼失を免れていて、昭和の時代までは戦前の建物もいくつか残っていたと思うのだが、ぼくが1988(昭和63)年に歩いたときは、小石川歯科医院と看板建築の製本所のような建物の2棟の写真を撮っただけである。他には気が付かなかったのだろうか。

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小石川歯科医院。文京区小石川1-28。1988(昭和63)年3月13日

白山通りの白山二丁目交差点から西へ、千川通りへ出る一方通行の通りがある。そこを入って70mほど行ったところにあった洋館の歯科医院。現在は3階建ての住宅に建て替わっている。
『日本近代建築総覧』に「小石川歯科医院、小石川1-28-13、構造=木3」で載っている。正面左、前面のベランダの奥が3階建て部分で、奥に長い寄棟屋根である。大正期を思わせる窓の桟が残っている。
都市徘徊blog>関邸(旧小石川歯科医院)』』には1995年撮影の写真が載っている。すでに歯科医院の看板はなく、また2007年5月の写真では建物にシートがかかっていて、2007年中に解体されたようだ。『消えた近代建築>小石川歯科医院』の写真では3階の屋根が写っている。このサイトでは建築年を大正14年としている。


左:1988(昭和63)年3月13日、右:2007(平成19)年2月19日

1枚目の写真の歯科医院の後ろに入母屋屋根の家が写っている。この家は取り壊されて広場のようになっている。歯科医院の建物を後ろから見ると洋館らしくは見えない。
歯科医院の隣にあったのが『日本近代建築総覧』に「鈴木・三橋邸、小石川1-28-13、建築年=大正15年、構造=木3」とある家。1988年には現在の3階建て住宅に替わっていた。

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NTT小石川電話局別館。文京区小石川1-21。1988(昭和63)年3月13日

白山通りから見えていた「NTT小石川第2ビル/NTT小石川ビル別館」は、ストリートビュー(2015年5月撮影)を見ると、すっかり解体されて基礎工事にかかっている。工事の掲示板によると、5階建てのビルに建て替える計画で、平成28年4月の完了予定である。「NTT小石川電話局別館」の名称は1986年の住宅地図から。
写真のビルのすぐそば、白山通りの裏手にNTT東日本の「小石川第1ビル」がある。上の写真を撮った頃は「NTT小石川電報電話局」だ。1960年代の建築かと思われるビルで、このビルが建った時点で別館の機能を移したものと思う。1969年の地図では別館の名称を「旧小石川電話局」としている。




NTT小石川第2ビル。小石川1-21
2007(平成19)年2月19日

Clocks & Clouds>小石川電話分局』で、別館の建物について考察されている。『文京区志』に、「東京豊島地区電話局小石川分局(柳町29番地―現小石川1-21)は、大正6年5月、東京中央電話局小石川分局の手動式電話局として、柳町24―現小石川1-18(第1ビルの場所か)に開局。昭和13年12月4日、自動式電話局となり現在地に移転」という記述があるのを発見して、昭和13年に建てられたものと結論している。

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旧・松波製本、雄喜堂。文京区小石川1-27。2007(平成19)年2月19日

柳町小学校の北の横町。モルタル塗看板建築の二軒長屋の左はどら焼きの幟があるから和菓子屋で、右は洋品屋。「松波製本」は1986年の住宅地図にあったもの。現在は「Sweet Water」の看板がかかっている。イタリアンレストランらしい。右の路地を入るとまだ古い家が残っているようだ。路地の右は「雄喜堂」。製本所のように見える。現在は住宅に建て直されている。



左:佐久間紙工。小石川1-27。2007(平成19)年2月19日
右:山川ビル(三宝印刷)。小石川1-28。1988(昭和63)年3月13日

近藤紙工は3階建てのビル。その右の出桁造りの家が佐久間紙工。どうもこの辺りは製本所が集中している感じだ。昭和22年の航空写真では五軒長屋くらいの建物が写っているが、その左端の一軒が残っているものらしい。写真右端のビルの1階が「小石川一郵便局」。
郵便局の前をさらに右へ行ったところにあったのが右写真の印刷工場のビル。昭和38年の航空写真には写っていないので昭和40年頃に建ったものだろうか。現在は「ランドレジデンス小石川」(2013年10月築、5階建、15戸)という賃貸マンションに建て替わっている。

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青木折本所。文京区小石川1-22。2007(平成19)年2月19日

白山通りの西の裏通りで、柳町小学校の向かい側。この辺りは今でも戦前からの家がところどころで見られる。ここから西の共同印刷へかけて、印刷関係の中小工場・家内工業所が多い。
青木折本所はストリートビューで見ると、建物はなくなっていて時間貸しの駐車場になっている。隣の家は小さな出桁造りの家で、残っている。



鈴木商店倉庫。小石川1-22。2007(平成19)年2月19日

1枚目写真の左奥を右へ、白山通りの方へ曲がった横町にあった看板建築の二軒長屋。今ある「葬儀・24時間対応/式典 鈴木商店」の看板の倉庫が写真の建物のようなのだが、外観は倉庫にしか見えないように改装されている。
隣の、裏通りとの角の空地は中尾工業の跡で、現在は賃貸マンション「ハウス‐K」(2007年12月築、5階建)が建つ。

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弘栄印刷。中央区湊2-10。1991(平成3)年11月17日

写真の周囲は地上げでかなり空地が広がりつつあった頃ではないかと思う。写真と同じ横町を1987年に撮った写真を、当ブログ『芙蓉堂』に載せてある。その写真では弘栄印刷の看板建築の右は「中西」の3階建ての小さなビルが、その右の裏通りとの角は『芙蓉堂』の2枚目写真「芙蓉堂印刷」の家があった。
奥の看板建築は「湊二クラブ」の看板をあげている。町会事務所だろうか? 2004年1月に撮った写真でも、湊二クラブの外壁が葺き直されている以外は同じ景観である。
現在は弘栄印刷のあった10番地はすべて空地で、湊二クラブのある15番地は「湊二丁目東地区市街地再開発事業(パークシティ中央湊ザタワー)」の工事が始まっている。ライオンズマンションが2棟写っているが、左の方が「ライオンズマンション鉄砲洲」で、9階建てのかなり大きなマンションだった。この、ほとんど建って間もないように見えるマンションが取り壊されてしまったのには驚いた。再開発のためなのだと思うが、まさか杭が問題になったわけではないだろうな。



松楽堂菓子店。湊二クラブの向かいにあった家。この家の後ろに写っているのが弘栄印刷の長屋。湊2-10。2004(平成16)年1月1日

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