ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




ヤマト電気製作所。台東区下谷2-13。1989(平成1)年3月19日

当ブログ前回の通りを少し東へ行ったところで、写真右の神社は小野照崎神社。3軒分に区切られた長屋形式の家である。
『東京の町を読む』(東京のまち研究会著、相模選書、昭和56年)にこの家の1階平明図画載っている。それを見ると右側の1軒は三角形の平面である。『東京の町を読む』には「震災復興時の広い新設道路と小野照崎神社の参道にはさまれた制約のある角地に建つため」と書かれている。この家の1階の造作を見ると、床屋だったようだ。右端の消火栓の看板が架かる内側はトイレである。建物の2階は少し後退していて前面に申し訳程度の1階屋根が付いている。2階の壁面や窓は看板建築と同じ形式だ。窓が大きいから戸袋が目立つ。



近影。2006(平成18)年4月9日

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肉のえびすや。台東区下谷2-13。1991(平成3)年9月23日

金杉通りの根岸3丁目交差点。右奥への通りは昭和通りを越えると入谷金美館通りになる。下谷2丁目は零細な町工場が多くあった地区だと思うが、戦後は特に家具関係の製造業が増えたようだ。現在は昭和通りを中心にあった大型家具店がなくなったので、また業種が変わってきているのかもしれない。下谷2丁目はほぼ空襲での焼失を免れている。昭和60年頃までは開発の手も伸びず、戦前に建てられた商店、民家、長屋が普通にあったようだ。今でもよく探せば点在していると思う。
角の「肉のえびすや」をはじめ、4軒の看板建築が写っている。現在はそのうちの1・2軒がビルに建替えられたが、景観はそう変わっていない。



クラフト・ギャラリー沙羅。1989(平成1)年3月19日

1枚目の写真の建設中のビルのところにあった長屋の商店。右手へ行くとすぐ小野照崎神社がある。昔の航空写真を見ると、写真左端の「山崎刃物店」から黒く塗った看板建築の家までが4軒長屋らしい。「クラフト・ギャラリー沙羅」の家も同規模の長屋である。1986年の住宅地図では「味の店明日香」。

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杉野ビル。中央区日本橋本町2-1(現2-5)
1986(昭和61)年1月

昭和通りに向いたビルで、本町2丁目交差点のすぐ北にある。昭和通りと一緒に首都高速道路が走っていてビルの正面は撮影できない。スクラッチタイルを貼った、昭和初期に建てられたと思われる外観である。
「玉川神社」のHPに中里介山の年賦があって、そこに「昭和10年3月―「隣人之友」編輯所を小石川区音羽から日本橋区本町杉野ビル2階に移転」という記述があることを、当ブログにコメントされてきた方がいる。少し間が空いてしまったが、中里介山ゆかりのビル、ということで取り上げてみた。とはいえ、「隣人之友社」があったのが写真のビルだという保障はない。
「年譜」によれば、1926(大正15)年12月に「隣人之友社」を創設して『隣人之友』という雑誌を発刊している。『隣人之友』には『大菩薩峠』が連載され、「隣人之友社」からは介山の著作が出版された。『大菩薩峠』も「机龍之介」の名前も知れ渡っているが映画になった影響が大きいと思う。ぼくも「大菩薩峠」は読んでいないし中里介山の経歴もまったく知らない。
やはり「年賦」によると、明治末から大正にかけて介山は谷中初音町、谷中三崎町、千駄木町、谷中真島町、根津須賀町に居住している。それと関連するのかどうか知らないが、『谷根千』の森まゆみは高校生で『大菩薩峠』を読んだ、とどこかに書いていたと覚えている。


近影。2010(平成22)年5月8日

現在は左の写真のように外観はかなり変わってしまった。わりと最近、3・4年前の改装だと思う。1986年の写真と比べると、2階右の「もみじ」という食堂が替わっていないように見える。しかし張り紙には昨年末で閉店している。

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魚喜。中央区日本橋人形町2-8。1985(昭和60)年8月4日

人形町通りの1本東の裏通りで、人形町今半のすぐ北。写真に写っている家は今もほとんどまだ残っている。むしろ写真右のビルが建て替わっているかもしれない。銅板貼りの家は奥行きが1間ほどしかないように見える。内部の部屋割りはどうなっているのだろう。
この家は魚屋だった家で、写真では魚屋を営んでいるようには見えないのですでに廃業したのかもしれない。あるいは行商なのだろうか。屋号の「魚喜」の「喜」は実際には「七」を3つ組み合わせた字。現在は1階の外回りが住居として改装されたが、銅板の壁やペディメントのような飾りは健在。
写真右のビルは昭和40年頃では小さなビリヤード場だった。火保図では「太一」という店名だ。ビルに替わる前だったと思う。



民家。1987(昭和62)年5月31日

魚喜の横を入ったところ。芳味亭というお座敷洋食の有名なレストランがあるが、その向かいである。写真中央よりの並んだ3軒は健在なので、現在も写真のような景観が見られる。



京家。1985(昭和60)年8月4日

この写真も魚喜の横を入って大門通りに出たところ。角の京屋が看板も含めて外装が変わっていないので、現在の景観もそう変化したようには見えない。朝日新聞販売所は3階建てのビルに替わった。その左は海上タバコ店で、建物は替わっていない。

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人形町今半。中央区日本橋人形町2-9。1985(昭和60)年8月4日

人形町今半は人形町通りの1本裏に入ったところにある。写真の家は今も使っていて、現在は壁を赤茶色に塗り、外観も多少改装して高級感を出している。
「浅草今半」の沿革によると、今半は1895(明治28)年に牛鍋屋として本所吾妻橋に開業したのが起こり。そこから分かれた浅草今半の日本橋店として昭和27年に開店したのが人形町の店で、昭和31年3月に「人形町今半」として独立した。
この場所は昔、喜扇亭という浪曲の寄席があったところで、建物も喜扇亭だったものではないかという節がある。以下、『にほんばし人形町』(人形町商店街協同組合編集、昭和51年)の「芸能界が遺した“下町の粋”」という章の「浪花節と色物の席“喜扇亭”」を引用する。
 明治30年(1897)から昭和28年まで、現在の人形町2丁目8番に喜扇亭があった。人形町界隈ただ一つの浪花節の定席で、昭和10年ごろの出演者を見ると、梅中軒鶯童、東武蔵、三門博、天中軒雲月、広沢虎造、相模太郎、広沢菊春、などであった。
 初代経営者の伊藤二郎吉は勇気のある世話好きの人で、いつも数人の芸人が奥に出入りしていた。ある者は家族と夕食をとり、金のない者は宿屋がわりに楽屋を使わせてもらっていた。浪花節のほかには、女剣劇、娘義太夫、と木戸の両側をその幟がいろどっていた。それぞれ肩のこらない楽しい出し物で、当時の客をじゅうぶん満足させていた。戦災を免れ、戦後復活したが、時代の急激な変化とテレビジョンの普及には勝てぬまま、消えていった。
今半日本橋店の開業が昭和27年に対して、喜扇亭の閉館が昭和28年。今半の住所が人形町2-9に対して、喜扇亭を人形町2-8としている。そう気にするほどのものではないかもしれない。
「喜扇亭」をネット検索したら、大量の件数がヒットしてびっくりした。今半が東京ミッドタウンに出店した鉄板焼きの店が喜扇亭という店名で、その情報だった。



長屋。1983(昭和58)年3月

今半の横を行って大門通りに出る角である。写真で見る限りでは5軒長屋のようだが、どこかで切れているかもしれない。現在は1軒ずつが小さいビルに建て替わっている中で、「中島進事務所」の看板の家が残っている。

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近為人形町店。中央区日本橋人形町2-5
上:1983(昭和58)年5月
左:1985(昭和60)年9月

上の写真は人形町通りで、アーケードがあった時代のもの。車が1台しか写っていないのは、休日で歩行者天国になっているためだと思う。歩行者天国であっても人がほとんど歩いていない。
上の写真右手の日本家屋はパチンコの正村と日山肉店。その隣が京都の漬物屋の老舗である「近為」の人形町店。この建物は元は「伊勢梅」という小間物屋で、近為になったのは撮影時より数年前だと思う。左の写真はアーケードを取り払った時で、伊勢梅だった建物の和風の正面が見えている。
近為の隣は横丁への角になる小島電気店。この店は古くからあって、大正15年の地図には「伊勢梅小間物店/電気器具小島商店」と、並んで記載されている。
近為の建物は今も残っているが小島電気は1988年にはビル(MID人形町ビル)に替わった。ビルは近為の後ろに続いていて、L字型の平面だ。


三階建て民家
日本橋人形町2-5
1982(昭和57)年

小島電気の角を入って人形町通りのほうを振り返っている。写真右端の赤い日除けが小島電気、同じ建物の青い日除けは飲食店のようだが店名は不明。銅板張りの建物は「マーガレット」の店名が読める。三階建ての日本家屋は日山が取得しているようだがどういう家だったのかは判らない。次の2階建ての家も不明。現在、小島電気はビルに替わったがそれに続く3軒の古い家は今も残っている。いずれもシャッターを下ろしたままだ。

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三星舎。千代田区神田錦町3-3。1992(平成4)年5月4日

写真右手奥に岡田信一郎が設計した博報堂(撮影時は本社ビル)が見えている。それで場所はすぐ判るようなものだが、最近これが取り壊されてしまったそうだ。
三星舎の小さな建物はRC造、スクラッチタイル張りの壁に丸窓のアクセントを置いた、昭和初期のスタイルのビル。住宅地図では「三星舎写真製版所」。上の写真ではビルの両側は建物が取り壊され、「建築計画のお知らせ」の掲示板が架かっていて解体も間近のようだ。
『廃景録>消えた近代建築>三星舎』によると「建設年:昭和8年/設計者:店主/解体年:平成4年」である。



上:1992(平成4)年5月4日
左:1987(昭和62)年12月31日

左の写真は門松に注連縄、「三星舎」の文字も輝いて正月の準備は万全という光景。ビルの左に写真屋の「サザギク3丁目店」が写っている。
右上の写真は玄関ドアの上で、和室なら欄間になるがこの場合はなんというのだろう。採光・換気の窓にしている。横軸の中心で回転するようだ。窓の桟がアールデコ模様である。今なら古い建具として商品になったと思うが。

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