ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




市川マーケット。千葉県市川市市川1-6。2004(平成16)年9月18日

当ブログ前回の市川マーケットの裏側。左の白い壁の家がイケダ理髪店、右の日本家屋が中華料理店のひさご亭。床屋も、餃子が有名だというひさご亭も入口は屋根付きの路地を入ったところだ。



ひさご亭。2007(平成19)年4月8日


リサイクルショップ・ヤマト
市川市市川1-6
2004(平成16)年4月29日

1枚目の写真の手前の駐車場の左のほうにあった建物。「市川の路地を楽しむ」の「三本松と市川マーケット」によれば洋裁学校だったこともある建物。同サイトには裏側からだが全体が分かる写真が載っている。「ムラセ洋裁学校」の文字が残っていたそうだ。写真からはよく分からないが、ぼくが見た限りでは戦前からの建物としてもいいように感じた。昭和22年の航空写真にもそれらしい建物が認められる。

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市川マーケット。千葉県市川市市川1-6。2003(平成15)年11月19日

前の通りは総武線市川駅の北を線路と平行している千葉街道(国道14号)で、市川駅前へ入る交差点のすぐ東。
この建物は「市川の路地を楽しむ」というサイトの「三本松と市川マーケット」に詳しい。屋上にまで上り、隣のビルから見下ろし、取り壊しの様子までが見られる。よくぞここまで記録してくれたと、感心してしまう。当サイトでは「市川マーケット」の名称を1928(昭和3)年発行の「市川町鳥瞰図」に見つけている。また建物もその当時のものを改装したしたものではないかと、推定している。
通りに面した2階建てのビルに見える建物は昭和22年の航空写真には写っていないので戦後のものだ。屋上があるのだから鉄筋コンクリート造りなのだろうか。その正面の建物の左奥に並ぶ家は航空写真に写っているが戦前からのものかどうかは分からない。
建物中央の入口から入ると屋根をかけたアーケードの飲食店街のようだ。「市川の路地を楽しむ」の写真を見ると、どうも両側に並んだ小さい家の間の路地に屋根を架けたものらしい。

左写真は通りのほうから、右写真は奥から通りのほうをみたところ。2007(平成19)年4月8日

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都庁西3号庁舎。千代田区丸の内3-5。1986(昭和61)年12月30日

丸の内の旧都庁の西の通りに面していた庁舎。上の写真は曇った暗い日の撮影のようでモノクロ写真のようになっているうえ街路樹の枝が邪魔だ。それでもこの写真はまずまずのもので、街路樹の葉が出てくるとそれに隠れて見えなくなってしまう。
当時の都庁の案内図には「東京都建設局(道路管理部、道路建設部、区画整理部)、職員互助組合(売店、相談所)」となっている。
帝国農会という組織の事務所として1930(昭和5)年に建ったビルで、岡田信一郎の設計、銭高組の施工である。旧都庁の北西角にあった日本赤十字東京支部の建物も岡田捷五郎との共同設計によるものだった。
「AGROLib(農林水産研究結果ライブラリ)」「帝国農会時報」という会報が公開されている。その31号(1930年)に5月27日の落成式の記事が載っている。外観の写真もあり、それについての少々大げさな解説もある。建物の資料としては1929年8月号(21号)に「新築工事概要」と岡田信一郎自身が寄稿した「帝国農会の建築に就て」という記事がある。


『建築探偵日記』(藤森照信著、王国社、1993年)が西3号庁舎を取り上げている。それによると、都庁の職員は「テーノービル」と言っていたそうだ。「帝国農会ビル」の名称が尾を引いていたわけだ。本書にはビルを飾っていたレリーフについて述べている。窓の間の壁に見えるが、4本のオーダーのつもりらしい。その柱頭の飾りが羽根を広げた鷲である。鷲の前には盾があって、そこに種を蒔く農夫が描かれているそうだ。ビルの左右にある3階の窓にバルコニーがあって、その壁にもレリーフがある。こちらは「豊穣の角」だという。

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第一勧業銀行宝くじ部。千代田区丸の内3-5。1991(平成3)年4月21日

丸の内の旧都庁のあった敷地の南西の角にあった。東京府農工銀行として建てられたらしい。1928(昭和3)年の完成で設計者は佐藤功一、施工は安藤組である。オーダーが支える梁の上にもう1階分乗せることが多いと思うが、このビルはそこで終わっていて3階建てだ。コリント式のオーダーは16角形で、壁面は煉瓦タイルを貼っている。

左:1991(平成3)年4月21日、右:1985(昭和60)年11月23日



麹町保健所のほうから撮影。保健所の入口上部にあった「東京都千代田区麹町保健所」の看板がなくなっている。1987(昭和62)年3月15日

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麹町保健所。千代田区丸の内3-5。1985(昭和60)年11月23日

丸の内の旧都庁の敷地の南にあった。写真右に高架の有楽町駅が見えている。麹町保健所の向かいは読売会館で当時は有楽町そごうだ。保健所の建物に関しては大正13年の建築という以外は不詳。保健所として建ったのかどうかも分からない、ということになりそうだ。『江戸東京街の履歴書4』(斑目文雄著、原書房、1992年)に載っている手書きの地図に「東京都衛生試験所あと」とあるから、それかもしれない。



1986(昭和61)年1月12日



麹町保健所の裏側。都庁の敷地内から撮ったもので、有楽町そごうだったときの読売会館が写っている。1986(昭和61)年5月18日

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蓮沼家。台東区東上野5-1。1988(昭和63)年5月1日

同潤会の上野下アパートは有名な近代建築の物件だが、その向かいに噺家長屋があった。写真右の日本家屋に続いて、2軒長屋と4軒長屋とが一続きで並んでいる。写真左の4軒長屋が噺家長屋といわれた建物。2軒長屋が今も残っている。ブログ「都市徘徊blog>東上野・噺家長屋」でこの家並みの昔と今を比較できる。



噺家長屋。東上野5-1。1988(昭和63)年5月1日

写真左端が林家彦六(八代目林家正蔵、稲荷町の師匠)の家だった。『東京路上細見3』(酒井不二雄著、平凡社、1988年)によると、林家彦六は昭和57年に86歳で亡くなっているが、後半生の45年間をこの家に住んだという。「間口2間、戸を開けると1坪ほどの三和土(たたき)で、上がると2畳の間、そして隣が6畳間、その奥が6畳ほどの台所だ。台所は、もっと狭かったのを広げたと聞く。2階はたぶん6畳2間ぐらいだろう。」と記している。
撮影時はそんなこととは知らなかったらしく、彦六の家だったほうからの写真を撮っていない。

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種村ベルト製作所。台東区東上野4-20。1989(平成1)年7月23日

現在の台東保険所の裏の道路。写真左奥へ行くと下谷小学校の北の道路にぶつかる。写真左の中川商店とその隣の家がなくなったが、その他はまだ残っているようだ。写真中央の日除けを出している家が種村ベルト製作所。正面がばらばらなのだが、おそらく四軒長屋だと思われる。


葛井歯科
東上野4-27
1989(平成1)7月23日

昭和通りのすぐ裏で、向かい側は地下鉄の車庫のような施設があって、その塀が続いている。葛井歯科医院は袖看板がある建物で、この家は今もあり、表面は改装されているが戦前に建てられた看板建築らしい。写真の日本家屋はたぶん葛井医院の住居だ。写真左の二階建ての家とビルのところは大きいオフィスビルになった。

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上:浜野理容店
静岡県伊東市猪戸1
2006(平成18)年11月24日
写真右のわりと広い通りは猪戸(ししど)通り商店街で、伊東駅から300mくらい南にいったところ。写真左の横丁が湯の花通りという伊東駅へ通じている商店街である。

左:井原薬局
伊東市猪戸1
浜野理容店とは湯の花通りの向かいで同じ交差点に向いている。

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年に2回くらいだが1泊で温泉旅館なんかに行くことがある。ぼくは名所旧跡より駅前の商店街や飲食店街を見て歩くほうが好きだ。そこで旅館に入るとたいていは連れを旅館に残してひとりで街へ出かける。旅館が街から遠いと見て歩いてから旅館に入ることもある。今回はそういう時にぼくが興味を引かれた建物で、最近の撮影である。



上:みその
静岡県伊東市湯川1
2006(平成18)年11月24日
伊豆急の伊東駅の駅前のおみやげや。2階正面に円形の出窓がある。建物の角を入っていくのが仲丸通りという商店街。

左:松田椿油店
伊東市猪戸1
2006(平成18)年11月25日
駅前から仲丸通りの西の湯の花通りを行くと五差路がある。その角の店。ほとんどの観光客は店先の商品に目が行くばかりで建物の外観には無関心である。

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