ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




日本倉庫。中央区勝どき3-2。1989(平成1)年11月26日(3枚とも)

写真右奥は隅田川の堤防。現在は平成13年に完成した「セルリアンホームズ勝どき」という高層マンションが立っている。


日本倉庫(1枚目の写真にある事務所棟)。


日本倉庫。勝どき3-2。

1枚目の写真と同じブロックの東南側。奥に「勝鬨橋乾ゴルフ練習場」があって、その隅田川のほうに「イヌイビル・カチドキ」が立つ。
撮影した頃の住宅地図には、勝どき3丁目の隅田川よりに「(株)日本倉庫」の文字が2、12、13、14番地に見られる。現在、そのすべてが高層マンションに変わったようだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





鈴木ビル。中央区銀座1-28。2004(平成16)年4月10日

旧木挽町1丁目の物件の中では鈴木ビルとその隣の岩瀬博美商店は欠かせない。大震災後に築地川と京橋川とをつなぐ運河(新築地川)を開削したが、鈴木ビルはその西岸にある。このビルのことは「関根要太郎研究室@はこだて>鈴木ビル」に詳しい。『設計:山中節治建築事務所、施工:新工務所、竣工:1929(昭和4)年12月』を書き写させてもらって、後は「関根要太郎研究室@はこだて」を参照してもらうのがいいだろう。
上の写真はかなり引いた位置から正面を撮っているのが分かると思う。ちょうどビルの前の建物が取り壊されて更地になっていたのでそこに入って撮ることができた。

左:鈴木ビル。1986(昭和61)年9月7日
右:鈴木ビルの向かいにあった民家。銀座1-23。1987(昭和62)年11月6日

脇税務会計事務所、SBSスタジオ、放芸プロの袖看板が懸かっている。ビル1階右端の看板の店名は読み取れないが喫茶店らしい。また入口脇の柱には旭映画株式会社の表札があった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




左:長島印刷所。中央区銀座1-21。1987(昭和62)年4月29日
右:旧・朝日印刷。銀座1-21。1987(昭和62)年10月4日

左写真の3軒並んだ看板建築の向かいは万安楼(現・銀座タワー)。写真中央の長島印刷の左の建物は昭和30年頃の地図では高島印刷所。どうも印刷屋が多かった地域のようだ。
右写真は手前の家がなくなって裏の路地に面している家が見えている。背後の木は万安楼のもの。

おっかさん弁当
銀座1-22
1987(昭和62)4月29日

写真右へ行くと三吉橋へ出る通り。万安楼の方へ入る横丁の角である。今もあると思う。長屋とは言いにくいし、看板建築のアパートといっていいだろうか? 小規模の建物には使わないかもしれないが、1階を店舗にしたアパートを下駄履きアパートというが、どういう謂れなのだろう? 1階にはグローリー(喫茶)、梅村(中華料理)、おっかさん弁当が入っている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





万安楼。中央区銀座1-22。1996(平成8)年2月11日

万安楼(まんやすろう)の写真はほとんど撮っていない。黒板塀で囲まれていて建物そのものが直接撮れなかったせいかもしれない。上の写真は北の裏側。
現在は2003年7月に竣工した銀座タワーという高層マンションが建つ。



銀座一丁目東町会事務所。銀座1-24。1987(昭和62)年10月4日

写真左手の木立は京橋公園。町会の右手向かいは万安楼。
この町会の範囲は、昭和通りの西側の12番地から東側である。かつての三十間堀川から築地川の間で旧・木挽町1丁目になる。

慶州苑の洋風長屋。銀座1-24。左:1988(昭和63)年10月9日、右:1985(昭和60)年6月9日

3軒長屋といっていいと思うが、3階建てになると長屋とはいわないかもしれない。
昭和60年には理髪店銀巴里だった店が昭和62年には飲み屋に変わっている。店名は読み取れない。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




左:腰折屋根の家(区立中央会館の裏)。銀座2-16。1987(昭和62)年5月
右:アロム(旧岡本水道工事)、正降印刷。銀座2-16。1987(昭和62)年5月

三吉橋袂の区立中央会館(結婚式場・レストラン、現・銀座ブロッサム)は、昭和30年代には癌研究附属病院や旅館・好川があったようだが、その裏手は銅版貼りなどの戦前の建物が密集して残っていた。
左写真の家は昭和30年頃の地図では「井上アスファルト」、右の銅版貼り看板建築は「橋本印刷」(撮影時も)。
右写真は左写真の奥を右へ曲がって通りに出た角。

蛇の目寿し
銀座2-13
1990(平成2)年4月1日

前の通りは亀井橋から来て、秩父錦のある木挽町仲通りと交わる手前。蛇の目寿しと隣の細谷酒店は昭和30年頃の地図にも出ている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





町田食品店・森沢商店。中央区銀座2-13。1985(昭和60)年10月13日

昭和通りの1本東の裏通り。昭和30年頃の地図(住所は銀座東2-7)では、天野そば店、町田食品店、森沢紐店、椿堂文具店、松本理髪店とならんでいて、あまり変化していないようだ。



森沢商店。1987(昭和62)年5月

1枚目と同じような写真だが町田食品店が取り壊されて森沢商店の側面が見えている。


酒蔵秩父錦。銀座2-13。1988(昭和63)年2月14日

ちょっと銀座とは思えない風景だが、建物が建った昭和初期は木挽町だった。木挽町ならこんなものか、とわけも無く納得してしまったりする。
秩父錦の出桁造りの建物は今も健在だが、その周囲はすっかりビル化された。かつては写真のように両隣は銅版貼りの看板建築だった。写真左が藤田クリーニング店、右が萬福(中華料理)。秩父錦が薪炭商だったという記述はネット上でよく見かける。木村伊兵衛だったと思うが炭屋だったころの写真があって、それあたりが原典かもしれない。

萬福
1988(昭和63)年2月14日

現在は隣のビルと一緒に新しいビルになって萬福の入口はビルの角に移動した。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





高林クリーニング商会。中央区湊1-6。1987(昭和62)年1月15日
左手に100mくらいで南高橋にかかるところ。


マルヒ商会(不動産)。湊1-6。1987(昭和62)年10月11日
背後のイチョウは鉄砲洲稲荷。


三羊印刷社。湊1-7。1988(昭和63)年1月4日
高林クリーニングの向かい。


北川紙工場。湊1-10。1987(昭和62)年頃
鉄砲洲稲荷神社の向かい。左手にすぐ鉄砲洲バス停。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





みづほ(飲み屋)。中央区入船2-6・5。1986(昭和61)年頃

見にくい写真だが資料として掲載する。新大橋通りの1本東の裏通りだ。写真左手が6番地、路地があって銅版貼りの松島屋から右が5番地。

左:松島屋呉服店。入船2-5。1986(昭和61)年6月15日
右:紀伊国屋。入船2-1。1987(昭和62)年5月3日

松島屋呉服店の建物はあるいは現存しているかもしれない。撮影時にはすでに廃業しているのかもしれないが、建物の状態が良好で、ほとんど建設時のままのように思える。銅版貼りの看板建築の見本のような建物だ。
紀伊国屋は松島屋の向かいにあった。雑貨店だったようだ。


広橋精版。入船2-5。1986(昭和61)年6月15日

1枚目の写真で右端に写っている。『下町残影』(村岡秀男著、朝日新聞社、1988年)に岡田昇氏の談で「船乗り相手のカフェとして建った建物」と記載されている。消えかかった正面の看板は「廣橋精版」で、普通は「製版」だが「精巧な組版」をアピールする社名だろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





花がさ(すし)。中央区入船2-1。1985(昭和60)年11月10日

新大橋通り沿いの古い家並み。現在はこの1番地全体が住友入船ビル(1990年竣工)になっている。
新大橋通りは大震災後の昭和5年頃に開通した大通りで、開通時は「市場通り」の名称だった。正式には都道50号東京市川線という。新大橋通りは都内での通称。
入船・湊地区での街路の震災復興事業では新大橋通りの他に、南高橋の架橋(昭和7年)、船松町(現・湊3丁目東部)を囲っていた鉄砲洲川の埋め立て、鉄砲洲児童公園の東のバス通りを斜めに通したことなどが主なものだろうか。


ミナト電機(4軒長屋)。入船2-1。1987(昭和62)年頃
1枚目の写真には左に茶色の長屋が写っているが上の写真では取り壊されているようだ。

三原商会
入船2-1
1987(昭和62)年5月3日

路地に面した洋風の外見の長屋。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



   次ページ »