ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




正緑荘A。台東区谷中7-13。2007(平成19)年12月1日

JR日暮里駅の南の崖の上に2棟の木造アパートがあった。谷中霊園の中に島のように存在する住宅地があって、その中の線路際にあった戦前に建てられた大きいアパートだ。2015年7月頃に取り壊されて、すでに「たのしい家 台東谷中」という3階建ての老人ホームが2016年9月に開設している。


正緑荘。2011(平成23)年11月9日

正緑荘を正面から見た人は少ないだろうが、裏からなら大勢の人が見ているはずだ。上の写真は日暮里駅の南の芋坂跨線橋から撮った。山手線、京浜東北線、常磐線、京成本線の車窓から見えていたお馴染みの景色だろう。左が正緑荘A、右が正緑荘B。
『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)の巻末の表では「正緑荘2棟、住居、木造2階建桟瓦葺、-」で、建築年は不明だが、後で述べるように昭和12年らしい。



正緑荘A。2011(平成23)年11月9日

『異能の画家 小松崎茂』(根本圭助著、光人社NF文庫、2000年、単行本は1993年、著者はイラスト画家で小松崎の弟子)に、小松崎茂が昭和20年から3年3ヵ月の間、正緑荘で暮らしたことが記されている。
小松崎が生まれ育ったのは現在の住所でいうと荒川区南千住5-28。白髭橋のガスタンクや汐入の湿地と原っぱが原風景にある。昭和12年創刊の雑誌『機械化』の軍艦や飛行機の挿絵が実質的なデビューらしい。東京が空襲を受けるようになると、それを恐れて天王寺アパート(正緑荘)に引っ越す。昭和20年2月か3月と思われる。B館の6畳一間を二間借りた。当時「天王ホテル」と呼ばれたというが、住民が諧謔的に言ったものだろう。天王寺アパートは昭和12年に根岸あたりの小学校を解体した資材で建築されたもの、と小松崎は聞いた。80室以上あるというから1フロア20室の大きな木造アパートだ。上野辺りの女給さんが多く入居していたらしい。
3月10日の大空襲を小松崎は崖の上から眺めた。家族はその炎の中にいた。炎が下火になると小松崎はその中に入っていったという。南千住の家は焼失したが家族とは再会を果たす。
戦後は少年誌などの仕事が錯綜してくるとアパートの一室では狭すぎる。昭和23年夏に駒込に土地を買い、家を建てて引っ越す。少年雑誌で人気が出るのは駒込に移ってからのようだ。



正緑荘B。2011(平成23)年11月9日

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