葦群

川柳 梅崎流青

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川柳葦群47号

2018年10月05日 | 本と雑誌
葦の原推奨作品  (第47号より)
       梅崎 流青選
人間のせいでミミズが干涸びる    三村 悦子
老いた樹にもたれて明日を語らんか  木本 朱夏
脱け殻よ以後のお前は幸せか     田中ほつ枝
米粒の重さを思う兄想う       荻原 鹿声
息吸って吐いて自分を誉めてみる   野沢 省悟
夏つばめ死者の使いをして戻る    淡路 放生
人生の静かな雨を待っている     前田 邦子
レンタルの家族で済ます野辺送り  さわだまゆみ
目を閉じてしばらく鳥になってみる  和才 美絵
副作用覚悟で開く古日記       清水美智子
引き潮が決断力を待っている    北村あじさい
過ぎたこと鍋はぐつぐつ煮立つだけ  吉開 綾子
座布団の下は奈落か針山か      木村 翔龍
淋しいと言ってしまえば折れる覇気  松村 華菜
資源ゴミ私は何のゴミだろう     佐藤 倫子
吊橋の揺れるまんなか現住所     山内 房子

川柳葦群ノート (47)
そよぐ葦たち
岸本吟一先生から川柳誌「人間座」発行継続を要請された時、逡巡の後その条件の一つとして新しい誌名で、ということをお願いした。
恐れ多いことではあったが古来に倣い新しい革袋に新しい酒を注ぎ入れたかったからである。
新しい革袋の名は「川柳葦群」。パスカルの「人間は考える葦」という言葉が頭の片隅にあった。
だが「考える葦」の前段には「人間は一本の葦にすぎず自然の中で最も弱いものである」。
果たしてそうであろうか。夏が過ぎ今はもう枯葦の装いを見せているが、早春、風はまだ頬に痛い頃その根元には緑の葦の角を宿す。北原白秋はこの葦の新芽を「あしかび」と称し歌に詠んだ。
枯葦は刈られよしずや屋根を葺く材料ともなった。私の幼い頃、昭和30年代は村総出の葦苅風景が見られた。
何よりその葦たちは護岸の役目を果たし水を浄化、魚の産卵を助け野鳥「よしきり」を匿い育てるという何とも頼もしい存在でもある。
パスカルは弱いものに置き換えて葦を選んだがどっこい葦という植物はこのように強いものである。
その一本ずつの葦が群れそよぐことができたら、という願望が「葦群」の名の由来となった。
吟一先生も「良い、葦群よろしきかな」。いつもの饒舌で端正な文字がまるで短く歪んで届いた。これは先生の体調が重篤に向かっているという証でもあった。
急がねば。ふりがなを付けねばならぬような「あしぐん」という重箱読みではあるが「群」はもちろん「むれ」でもある。
多数の人が群がり住んでいるという意味から、「群」と同源の語に「村」がある。人に個があるように村にもそれぞれの個があってよい。
しかし、その個はどこまでも「どこかに文芸性の香り」の村でありたいと願っている。      

近 詠
罪状を曝けだしてもみる柘榴
夢破れネオンの一字消えた街
暗がりで鳴くコオロギと合唱す
柿の木に父の本心そっと吊るす
父に似た耳を生涯嫌い抜く      (梅崎流青)


苦海に浮かぶ
木のほとけ

1強の残した歪み
私は昨年の全日本札幌大会で〈1強を崩せぬはがゆさの一人〉という句を秀句とした。今年の熊本大会の最優秀句は〈フクシマの草へ言い訳などするな〉が選ばれた。
 川柳は社会と人間を詠う、というものの全体的には人間の営みに焦点を当てた秀句が多かった。これは川柳に限ったことではないが女性の社会進出と無縁ではない。
各地の川柳教室や、句会、大会でもその割合は所によっては男性を圧倒する。
日本の男女の平均寿命の差は「地域社会進出の差」と広言する識者さえいる。
 人間の営み、とりわけ「相聞」の範疇には女性の筆致に及ばぬことが多い。反面、社会の矛盾や批判の矢は男性作品に力強さと鋭さを覚えることが多い。
 私が担当する西日本新聞の「ニュース川柳」投句は男性の割合が多くを占める。
この夏の西日本豪雨災害はその規模においても悲惨を極めた。その「命に危険が及ぶ」という警報が出された夜、あろうことか「赤坂自民亭」では安倍首相以下宴会を開いていたことが明るみになった。これを参加者の一人が得意気にツイッターに流し拡散したものだから騒ぎもまた拡散した。
 これ程今の政権の体質を如実に表しているできごとはない。〈よくもまあカジノ6増自民亭〉のごとくもう現政権には「民のため何ができるか」という基本理念は急速に失われつつある。
 その「赤坂自民亭」という羹(あつもの)によほど懲りたのだろう。今回の震度7を記録した北海道地震では犠牲者数、電力復旧見通しの政府発表は不正確で現場混乱を招き後で修正、という不始末。危機管理能力の高さを示す狙いが勇み足となった。
 加えて全体の被害額、実態の算定もないまま激甚災害の指定も進めようとしているという。これではまるで災害の政治利用ではないか。違った形の「膾(なます)を吹く」である。
 歴史のなかの正義 「人はどうして歴史を学ぶか」の問いには必ず「再び同じ過ちを繰り返さないため」が用意されている。もう季語化した感じでもある「六日九日十五日」はヒロシマ、ナガサキそして終戦記念の日に「ノーモア」を誓う日である。
 その鉄則が崩れかけている。「森友、加計」に代表される嘘、改ざん、欺瞞そして忖度が何のお咎めもなくお天道さまの下で大手を振って歩いているのだ。
 それでも「モリカケ」は現政権にとってはどこまでも岩盤規制に穴を開けた「正義」なのだ。過ちと認めないこのような「正義」がこれからも繰り返されていくのだろう。
 首相の名を騙り開校させた加計学園にこれから途方もない国民の税金が延々と注ぎこまれていく。
 一連の出来事を許してしまう「民主主義」とは一体何だろう。ある意味でこれはもう日本の劣化と言える。
 このような権力に対し批判の矢を背骨の一つとしてきた川柳。
ただ皮肉にも歴史は常に勝者によって書き換えられる、ということを確認したこの夏でもあったし、1強の残した歪みは多くの「歯がゆさのひとり」を生んだ。
今回の総裁選の対立候補の公約「正直・公正」に対しこれを個人攻撃と指弾する一強とこれを頂く国民の不幸を思う。
苦海のいのち
 民の辛苦を横目に政や官がグラスを傾ける、という構図は今に始まったことではない。
〈火のペンで苦海のいのち描ききる〉が熊本大会の秀句にある。
風光明美な熊本の片隅で起きた水俣病に対しても彼らは傾けたグラスを手から離そうとしなかった。
 石牟礼道子(1927~2016年 )の「苦海浄土」は工場排水の水銀によって侵された海、山、村そして人間たちの苦悩を海や患者たちの視点で書き綴ったものである。
 「苦海」は「くがい」と読む。辞書にはない。聞きなれないことばだ。私はどうして「苦(く)海(がい)」なのか、本編、あとがきにもその理由を探したが見つけることができなかった。浄土の反意語は穢土(えど)。汚れたこの世、現世である。そしてこの苦しみの絶えない現世の人間界を「苦界、公界」という。何れも「くがい」と読む。「苦海」は作者石牟礼道子には「苦界」と同義語だったのだ。
石牟礼道子は詩人だった。散文を操る小説家ではなく、韻文の詩人がこの世との繋がりを絶ち、人間の尊厳さえ自ら放棄せざるを得なかった水俣病患者たちの阿鼻叫喚(あびきょうかん)を書き綴ったのである。
 小説を書くこともなく、それこそ手なぐさみに詩を書いて熊本に住む一主婦の石牟礼道子。書く場所は縁側にはみ出した小さな木の机ただ一つだった。
私は韻文に親しんだ詩人だからこそ、その文章文体には常に体温があり読み手を引き入れるリズム感があると読みながら感じた。それは苦界に繋がる苦海の選択、そして今は苦しいが、そこから逃れ必ず誰もが行きつくことのできる西方浄土が待っている、という希望を見出すことによって水俣病に苦しむ人々に寄り添い心の安寧を説いたのでる。「憐憫の情」とはこのようなことなのか。
「生病老死」。一般に死は、四苦の中の苦しみの一つであるが水俣病患者にとって死は極楽への足掛かり、だったのである。
 人は文なり
文は人なり、という言葉にはこれまで色々なところで出会った。さしずめこの「苦海浄土」を構成しているものは「人は文なり」ということである。この本の重要な位置を占めるのは患者の肉声である。
奇病と呼ばれ家族、親族からも疎まれ地域では白い眼の焦点が患者に合わされた。
当時、国策企業のチッソはお国にも村にも欠かせぬ存在。村の発展にはどうしても必要な企業だった。会社が危うくなれば村も立ち行かなくなる、という会社と村とは「運命共同体」という思想が村全体を支配していた。
奇病は何処までも個人の責任に帰着させざるを得なかった。そのような風潮の中で患者の「肉声」が聞けたのは筆者の人間性に負うところということが読み手に伝わる。
今で言う「上から目線」のジャーナリストや役人には口を開かなかった患者たちは石牟礼道子にだけは心を開いた。空を飛ぶ鳥の視点ではなく、地を這う虫の視点で患者たちと相対したのだ。
漁師の栄華
 全編の中で一人合点、ガッテンと何度も膝を打ちながら頁を捲ったところがある。
まだ汚染されない頃の美しい水俣湾に生業の全てを委ねている漁師の――海ばたにおるもんが、漁師がおかしゅうてめしのなんのか食わるるか。わが獲ったぞんぶん(思うぞんぶん)の魚で1日三合の焼酎を毎日飲む。人間栄華は色々あるが、漁師の栄華はこるがほかにはあるめえが――というくだりである。
 私にはこの漁師と思いを同じくする時がある。畑で取れた茄子やカボチャ。そして釣ったばかりを焼いたウナギの白焼き。時にはウナギに変わりスズキの刺身に吸い物。冷えたビールと芋焼酎の水割り。漁師の言葉を借りれば人間の栄華に浴する日々は一年のうちで結構多い。これに鶏でも飼いどぶろくでも作ればエンゲル係数はほぼゼロに近い栄華の日々が送れる。
 この老漁師も「わが獲ったぞんぶんの魚」でほどなく苦海から浄土へと旅立つ。
 「苦海」は全編あらゆるところで著されているが「人間の尊厳」という視点でどうしてもこの場面は心に止めて置かねばならぬ、というところがある。
息子も水俣病。孫の杢太郎も胎児性患者。息子嫁は孫を産んで家出という環境に置かれた一家の「じいさん」が石牟礼道子に訥々と語る。
 その当時「胎児性水俣病」という概念はまだ確立されていなかった。いや、調べようとしなかった、というのが正しいかも知れない。子どもは母親の胎盤を通してすべからく「浄化」されるとされていたのである。
 後年、小児マヒと呼ばれた胎児性患者も水俣病と認定されるがその補償金は僅か年額30000円だった。
 木のほとけ
――一生のうちなんも自慢するこたなかが、そりゃちっとぐらいのこまんか嘘はときの方便で使いとおしたことはあるが、ひとのものをくすねたりだましたり、泥棒も人殺しも悪かことはいっちょもせんごと気をつけて、人にゃメイワクかけんごと信心深う暮らしてきたて、なんでもうじき、お迎いのこらすころになってから、こがんした災難に、遭わんばならんでござっしゅかい。(略)杢よい、お前こそがいちばんの仏じゃわい。爺やんな、お前ば拝もうごたる。あねさん、こいつば抱いてみてくだっせ。軽うござっすばい。木でつくった仏さんのごたるばい――。
何のために
 私たちは何のために川柳を書いているのだろう。この本を閉じて自問する。
詩人の石牟礼道子ほどのことができるとは毛の先ほどにも考えていないがあの世界大戦へ軍靴高まる時、鶴彬という先人がペンを折らなかったことも事実だ。
戦後73年を過ぎ戦争を知らない世代の割合が増え続ける。あの戦争の歴史さえ書き換える動きが一部ではあるが出てきている。
 1965(昭和40)年6月、新潟県阿賀野川流域で第2の水俣病が発生した。チッソ水俣工場と同じ原因だった。再びの過ち。水俣病が発見された1956(昭和31)年の歴史を学ぶということは経済の歯車の中ではこの軋み音さえ聞かせなかったのである。
 蝉時雨 川柳は時代の証言者、ともいう。「正義」さえも一強に歪められかねない現在、私たちは川柳でどれほどのことができるか分からないが、この時代を正しく表現する、ことはこれからも川柳人のテーマであり続けることだろう。
 あの多くの犠牲者を出した西日本豪雨に際し〈給水で水の重さをやっと知り〉〈鎮魂の読経に聞こゆ蝉時雨〉は新聞読者の投句である。          (梅崎流青)
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川柳葦群46号

2018年07月04日 | 本と雑誌
葦の原推奨作品  (第46号より)
       梅崎 流青選
吠えていた遠い記憶の朧月      辻内 次根
平均寿命伸びるそんなにいいことか  野沢 省悟
土打てば乳房ゆれるを哀しめり    田中ほつ枝
生き下手できっと死に下手布団干す  長井すみ子
明かり窓から時々出入りするむかし  村上 久美
将来の夢は入道雲である       水谷そう美
行く末は蝉が残して呉れた穴     板垣 孝志
この路地をごそり荷風の影がゆく  やまぐち珠美
紺色になれそう雨が降っている    真島久美子
赤い椿ポトポト落ちて一つ泣く    淡路 放生
よく歩き今日の夕日の丸いこと    宮原 せつ
感動をこぼさぬように目を閉じる   原田 順子
握りつぶしてきた掌がまだ熱い    堀 久美子
とても真面目に指人形の指になる   清野 玲子
終活は御免さくらのように散る   さわだまゆみ
三日目のカレー家族の味になる    中村  毬

川柳葦群ノート (46)
一字アケ
一面の麦は波打ち、庭の木々はまるでそれ自体が光をもっているように輝く。匂い立つ緑の中にいる。これも田舎暮らしの贅沢と言えなくもない。
万緑の中や吾子の歯生え初むる 中村草田男
「万緑」という季語はこの句によって生まれた。中国の漢詩、万緑叢中紅一点。紅は柘榴の花である。草田男といえば「降る雪や明治は遠くなりにけり」がある。
20年振りに訪ねた母校の子供たちが金ボタンの制服を着て雪の向こうから駆けてくる。私たちは黒絣の着物だったのに、という感慨。昭和6年の作。
これには少し余談がある。この句を句会で発表した時選者高濱虚子はこの句を入選句としなかった。
句会の帰り階段の踊り場で出席者の一人が「先生、草田男君の『降る雪や』は良かったですね」。
この一言でこの句は草田男の代表句となった。

葦群投句に「一字アケ」がたまに届く。8句の内4句というものもあった。川柳誌によっては一字アケの場合は□で明示下さい、とまである。
川柳は読み下しの5・7・5と言われてきた。1句が17音で成立するいわゆる1句1章の文芸を根拠に。
脱ぎ捨てて家がいちばんよいという がその例だ。
一字アケは1句の中に二つの文節、いわゆる2句1章の場合によくみられる。
俳句は「降る雪」と「明治は遠くなりにけり」の二つの文節を繋ぐ「や」という切れ字があるが川柳は余り用いないところから切れ字に相当する意味で一字アケの指定でもあろう。
しかし、読み手は作者から指定されなくても文節の切れは読み取ることはできる。作者から離れた作品は一人歩きを始めるという。ここは一切を読み手に委ねては如何だろう。
考えてみれば17音中の一字アケの一拍休止指定は18音と数えてもあながち見当違いではない。
森中惠美子の「子を産まぬ約束で逢う雪しきり」「北の窓別れることのむつかしさ」はいずれも2文節からなる一章ではあるがこの句を含めて一字アケは見当たらぬ。
因みに俳句もそうだ。一字アケという言葉や行為は限られた川柳人の「業界用語」といえなくもない。
川柳はどこまでも読み手に委ね信頼した短詩でありたいものだ。

近 詠
つくづくと独りよ丸くなって寝る
人の逝く日もむんむんとして若葉
人ひとり葬る舌という刃
露の世の爪切る音を響かせる
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川柳葦群45号

2018年04月11日 | 本と雑誌
葦の原推奨作品  (第45号より)
       梅崎 流青選
若返り橋があるやにゆりかもめ    淡路 放生
山脈を滴らせては葬が出る      春口倭文子
ひと言に出合いポキッと折れた牙   荻原 鹿声
ぽぽぽぽと咲くふるさとは桃の里   三村 悦子
一つ穴開けば一気に通う情      吉開 綾子
流されるだけの無情な時の川     真島久美子
ていねいに解凍される二十五時    清水美智子
生きるとはこれか世辞など言い狎れて 田中ほつ枝
のほほんと今日も命を無駄に生き   宮原 せつ
燃え尽きることもわくわくする歳に  辻内 次根
褒め言葉猫にもかけて布団干す    河内やすこ
縺れ糸辿ればとんでもない手と手   村上 久美
靴下の穴から妻が顔を出し      速川 美竹
旅ひとり岸辺の葦に誘われる     中村 鈴女
けだものの言葉で研いでいる刃物   小林 宥子

川柳葦群ノート (45)
蟹の穴
 老いと若さを隔てるものは何だろう。報道は決まって「65歳以上の高齢者」と65を一つの物差しとして「老い」を仕分ける。しかし、この65がいかに実態とかけ離れ曖昧な物差しであるかは誰しも異論がなかろう。
「夢を失ったら始まる老い」、は余りに哲学的だ。そんな時ラジオは「若い力」を電波に乗せた。
若い力と 感激に/燃えよ若人 胸を張れ/歓喜溢れる ユニホーム/肩にひとひら 花が散る/花も輝け 希望に満ちて/競え青春 強きもの
運動会で練習した懐かしい歌である。この中には日常忘れかけた言葉がいくつもある。感激、胸を張る、歓喜、輝け、希望、競え。何とまばゆい言葉たち。若さは抵抗なくそのような言葉を体に受け入れた。

このところ川柳界では「抜けてこその川柳大会」を口にする人が多くなったと聞く。そういえばいつか私の川柳教室に入会した人も「大会投句を添削してもらいたい」と申し込みの動機に上げた。
川柳雑誌に「入選のコツ」などの特集もそのような風潮に拍車をかける。
教室では、課題の一つを全員が選句する互選方式を取り入れている。そこには一つの傾向が出てくる。新人は新人に近い句をベテランにはベテランの句が集まる傾向がある。このことは大会の選句も例外ではなく新人やベテランを「川柳結社」に置き換えてもよい。
「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」現象が句会や大会で起きているのだ。例えば同一課題の選者共選の場合入選句が重なる確率はどこまでも数学的な確率と近似していることもそのことを立証する。
「抜けた抜けない」は、選者という甲羅の穴に「合った合わない」に置き換えてもそれほど見当違いでもない。
選者は絶対的な存在である一方全てではない。
一方「抜けてこその川柳人」は、発表された他の川柳人の秀句に対しても感動、感激することも淡泊なようだ。
当然の振る舞いとして大会表彰者に背を向けぞろぞろと会場を後にする川柳人たち。
そういえば「若い力」の二番には、「僕の喜び 君のもの」の一節がある。これら一連の行動は「若い力」を自ら手放しているような気がしてならない。
私たちは一体何のため川柳を作るのかを今、人間性を含め各々に問いかけられている。
近詠
みかん酸っぱし純情を競い合う
勝ち独楽の傷の深さをこそ誇れ
怠惰なる時間林檎の木の下で
干し魚の無念の重さだと知ろう
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川柳葦群44号

2018年01月02日 | 本と雑誌
葦の原推奨作品  (第44号より)
       梅崎 流青選
後悔はしない粗末に生きたけど    内田 久枝
帰っておいで帰っておいで木守柿  やまぐち珠美
立ち呑みの一杯カモメになっている  野沢 省悟
副葬や魚拓はむかし父だった     春口倭文子
嘘という指まっすぐに伸びている   山部 牧子
コオロギが一匹鳴いている 奈落   淡路 放生
ひもじくてポストの前に立っている  野村 賢悟
夜跨ぐたびに開いてしまう傷     石橋 芳山
おとうとを探す落葉を掻き分けて   柴田 美都
味噌汁の底のいりこの片思い     杉野 羅天
仮の世もひとりで歌う子守唄     中村 鈴女
また一人降りて吊り革揺れている   大河原信昭
母さんの涸れた乳房が美しい     馬場さだお
ゆで卵つるんと剥けて今日は晴れ   宮本ちどり
煮凝りを崩すやさしい嘘を待つ    萩原奈津子
折り合いがついたか家を壊す音    下釜  京

川柳葦群ノート (44)

背の君は太陽
 西日本新聞の「ニュース川柳」選者を引き受けこの一月で8カ月となる。政治、経済から文化、スポーツ。そして芸能、事件事故まで詠まれる題材は限りなく広い。
お蔭で新聞に目を通す時間は以前より格段に増えた。前任の田口麦彦さんは「川柳葦群」の発行と「ニュース川柳」の両立はかなり厳しいのではないか、との助言を頂いたが何とか乗り切っている。
それにしても「ニュース川柳」の「圧力」は想像以上のものであることは確かだ。日によってバラツキはあるが毎日50句、時には100句を超える投句が新聞社を経由して私のパソコンに送り込まれる。それをプリントアウトして選句に臨む。入選句の発表は毎週火、木、土の各4句というからかなりの厳選といえる。
この欄を担当して新しい発見がいくつかある。その一つは読者の旺盛な作句力だ。毎日、5句以上の投句者が何人もいる。また読者の「声欄」にもその名を見つけることはしばしば。
あたり前のことだが、「ニュース川柳」の投句者も選者と同じように丹念に新聞に目を通し、その思いをことばとして整理しさまざまな方法で読み手に伝達しているの
だ。
西日本新聞には「西日本読者文芸」という歴史ある文芸欄がある。全国でも数少ない詩、短歌、俳句、川柳を同一紙面で載せる。現在の選者は岸本吟一先生を引き継いだ森中惠美子さん。私を育ててくれたところでもある。この文芸欄にこのところ「ニュース川柳」の投句者を見かけるようになった。時事川柳が、私たちの現代川柳を構成している柱であることを考えれば当然のことではある。
一本の釘で留まっている平和 はその中の一つであるが「一本の釘」は憲法九条。
背の君は太陽月は眞子さまと 秋篠宮家の眞子さまの婚約が発表された時の句。挙式はこの11月4日に行われるという。
ひと頃、時事川柳は時代に流されやすいと指摘するむきもあったが余り説得力のあることばでもない。
なぜなら私たちの「社会や人間を詠う」川柳は時代そのものであり到底切り離すことなどできないからだ。
新聞読者と私たちの現代川柳が一本の橋で結ばれることを願っている。

  近 詠
柊匂う色欲の失せた身に
すれ違う他人火薬の匂いさせ
蝋燭の瘤太らせて拉致続く
物の怪がふわり近づく花火の後

私が私であるために
阿蘇に生まれた一滴は、そのまた一滴を集め小さな流れを作り、そのまた流れを集めて有明海に注ぐ。福岡県を貫く川を筑後川、熊本県のそれを白川という。この有明海、干満の差が大きく干潮時には広大な干潟が生じる。
目を凝らすと古生代からの生物、ミドリシャミセンガイをはじめ、はぜ科のムツゴロウ、ワラスボや蟹族のシオマネキなどが一斉に「自己主張」する。考えてみれば有明海そのものが海としての存在をさりげなく主張している。
 これら生き物を、郷土柳川を詩歌の母胎といった北原白秋は歌に詠み地元では古来からソールフードとして今に伝える。
 自己の主張は言いかえると「私はここにいます」。ムツゴロウのジャンプもシオマネキの由来でもある爪を大きく振るあの仕草も「私はここにいます」。
 川柳は「社会や人間を詠う17音の短詩」だという。勿論、川柳に限らず詩、短歌、俳句もそれらを包含するが川柳こそ、という願望に近い理念は私の中で揺るぎがない。それに加えて「私はここにいます」という一人称発信を常に心がけている。
 連歌の第1句の5・7・5を後の俳句となる発句とすれば川柳はそれら前句に付けた5・7・5、という出自が今も「課題」による作句という形になって引き継がれている。
 「課題」はどこまでも「社会や人間を詠う」触媒であるべき、との思いはあるが「川柳は17音のドラマ」という川柳人も多くいきおい自分を離れて虚飾を排しない川柳が量産され続けている。
 作者から離れた川柳という「影」は一人歩きして他人の影と重なり合うのだ。
 陶芸家、第13代酒井田柿右衛門には二人の弟子がいた。二人の弟子はその後二人とも「人間国宝」と呼ばれるのだが一人は第14代酒井田柿右衛門。もう一人は井上萬二。14代は先代の命を受け、赤と余白の美を、井上萬二は白と造形の美をそれぞれ追求する。
 ここに育った若い陶芸家たちは異口同音に言う。「私自身の影を確立したい」。
 「自身の影」は「独創性」と置き換えてもよい。このことは何も陶芸に限ったことではない。
芸術といわれるあらゆるものの背骨であり哲学なのだ。
ムツゴロウは今日も愚直にジャンプを繰り返し、シオマネキは満ち潮に押し流され姿が見えなくなるまで爪を振る。私が私であるために。
梅崎流青(詩歌の第81号より転載)


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川柳葦群43号

2017年10月05日 | 本と雑誌
葦の原推奨作品  (第43号より)
       梅崎 流青選
ふたひらの耳は寒がりジャズ流す   田中ほつ枝
一生涯円周率を出られない      内田 久枝
歳月のまことしやかに夏野行く    淡路 放生
へその緒の記憶の底の波の音     木本 朱夏
やわらかい言葉で毒を飲まされる   宮原 せつ
何故何故と何故何故何故と蝉の声   和才 美絵
そのことに触れずに母の目は真っ赤  横尾 信雄
戻れない道に焚火の跡がある     板垣 孝志
哀しみを数える指の温さなど     真島久美子
石塊のままでいいのか夕焼ける    荻原 鹿声
清濁の狭間で水が病んでいる     勢藤  潤
まちがいはないか一気に布を裁つ   砥川 房代
イマジンが溢れ出るまで水流す    清水美智子
水溜まりほどの疑念がまだ消えぬ   吉開 綾子
皿二枚この世あの世の真ん中に    柴田 美都
ガラガラポン大吉でしたポックリ死  小林 宥子


川柳葦群ノート (43)
 幽玄の正体
「このシテ連れは年老いた女性。そんな大きな声ではありません。もっと弱々しく」。「この場面は春です。春の雰囲気を出して下さい」。容赦のない指摘が飛んでくる。
 謡曲教室に通い始めて6年が経つ。経験が必ずしも上達に比例しないことを見事に実証しているが、それでも毎週「春の雰囲気」を探しに足を運ぶ。
 能楽。平安時代に源を発し、観世、宝生、金春、金剛、喜多のシテ方5流があるという。私たちの教室は、ここ福岡地方に多い喜多流。謡曲は能楽の詞章である。
まだ在職中観た、佐賀城本丸跡で演じられた薪能は「土蜘蛛」。金春流だった。狂言はある程度理解できても、能楽は私の能力の限界を超えた。能衣装や面、鼓、笛などで表される能を表す言葉、「幽玄」の正体はどこまでもまぼろしそのものだった。
 結婚式、わけても時代劇中詠われる「高砂やこの浦船に帆を上げて」の「高砂」は、私の家の正月の掛け軸となるのだが昨年の熊本大震災で大きな被害を受けた阿蘇神宮の神主が高砂、住之江に向かう場面だということを知った。
また「弓八幡」には「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむす」という国歌の一小節が出てくる。
そして、養老の瀧を題材とした「養老」には「それ行く川の流れは絶えずして而ももとの水には非ず」という鴨長明の「方丈記」(1212年)を中ほどに忍ばせている。
何れも世阿弥(1363~1443年)の作というが、茅葺きから見える「茅点(ぼうてん)の月」や朝早く人が通った形跡を表す「板橋(ばんきょう)の霜」など中国から伝わったと思われることばが随所に点在する。
 「奥の細道」(1689年)には「象潟や雨に西施がねぶの花」が収められている。象潟で松尾芭蕉が詠んだ時には松島と並ぶ景勝の地であったが1804年の地震で地盤が隆起消滅したという。「ねぶの花」は合歓の花。「西施」は春秋時代の越の美女。戦に負けて呉の王、夫差に献ぜられたという。「傾城の美女」との語源ともなった。
また「荒海や佐渡に横たふ天の河」は7月7日の七夕伝説が背景にある。牽牛と織姫の逢瀬と、地底の佐渡金山の虜囚との対比がこの句を深くする。
このように考えてみると世阿弥も芭蕉も中国の漢詩や文化、伝説をその物語、詩歌に取り入れて発表したことに驚く。ボタンを押せば世界に通じる現代ではない。中国との交易、遣隋使(607年)や遣唐使(630年)があったにせよ読み手に「西施」を読み解く中国文化がもうその頃の日本に根付いていたことはやはり驚くべきことである。
今日も「活字ではなく物語のその心を声に」という講師の遠慮のない声が飛ぶ。

 近 詠
不意の孤愁りんごに残る歯のかたち
木仏の鼻梁が知っているやがて
哀歓という病窓に灯がともる
手花火の闇が作っている戦後
秋となるインク壷にはインク満ち







 人に非ずという革袋
その絵の前に立つとその炎に手をかざして温めたくなる。ふっと息を吹きかけ蝋燭の揺らぎを確かめたくなる。
蝋燭の炎を描いているのだが、まるでそれを取り囲む闇を描いているのではないかと錯覚する。
画家の名は、高島野十郎(1890~1975)。福岡県久留米市の酒造家に生まれ東京大学農学部を首席で卒業。家業も継がずどこにも属さずひたすらキャンバスに向かう日々を送った。
「お前、大きくなったらしっかり働かんば野十郎さんのごつなるばい」。
野十郎と縁続きの少年は、祖母からいつも聞かされたと後年その陶芸家は轆轤の手を休めて私に語ってくれたことがあった。
朝星夜星を仰ぎ勤勉こそが人として最も大切なもの、という考えは今よりはるかに







「人としての道」だった。当時はまだ地主や小作という階級制度があり田を耕し、働くことが何よりの正義だった。
そのような「風土」の中で誰もが持ち得ぬ学歴を持ちながら日がな一日絵筆を握り続ける「絵描き」は夜星の下で稲束を抱える人にとっては「不正義」というより人に非ずの「人非人」だったのである。
この背景にはあの第二次世界大戦も横たわっていた。
この絵描きもあのフィンセント・ファン・ゴッホと同じように生前は無名に近く評価されるのは没後である。
この「人非人」に似た漢字がある。それは「俳人」。「俳」は役者という意味もあるが、これを分解すると「人に非ず」。
松尾芭蕉が「奥の細道」を著し一部の分限者たちがステータスとして俳諧の座を連衆として囲んでも今と比較すればそれほど一般的とは言い難いものだった。
多くの民にとって俳句をたしなむ人は絵描きと同じ「人に非ず」と言ってよかった。
俳句という言葉は正岡子規による命名とされるが、今では趣味を問われたおばさまは、右手で少し眼鏡を持ち上げ「ええ俳句を少し」。上流階級としての知的素養の代名詞となったのである。
石原裕次郎は「嵐を呼ぶ男」で「おいらはドラマーやくざなドラマー」とマイクを引き寄せ歌った。ドラム奏者はドラマー。ピアノ、ギターのそれはピアニスト、ギタリスト。
「川柳をつくる人をどう呼ぶのか」。前41号「川柳葦群」の木津川計先生の提論が頭を離れない。
かつて川柳の文化的向上の一つの手段として「川柳」の呼称を改めようとの声が上がったことがある。その頃もダジャレや言葉遊び、そして下ネタまがいの川柳を嘆く声に応えようとの動きだった。
「川柳は575の短詩」、ということで「川柳詩」にしよう、との提言もあったがいつの間にか立ち消えた。
どんなに新しい革袋でもそこに注ぐ酒が濁っていればどれほどの価値があろう。
「川柳をつくる人をどう呼ぶのか」。木津川計先生の指摘のように私たちは川柳家、川柳作家、川柳人、柳人と色々な呼び方をしてきた。私も改まって「川柳作家」との呼称を使ったことがある。どこかに他の川柳人とは違う尊敬の意味を込めた呼称でもあった。
「俳人」は辞書に、俳諧師、俳家、俳士を並べる。歌人はうたよみ、うたびと。確かに「川柳をつくる人」は辞書にはない。
こうして改めて考えてみるとここは消去法になるのだが「川柳人」が最も適当な呼称ということに落ち着く。川柳家、川柳作家は「つくる人」に対し過大な先入観と追従という下駄を履かせてしまう。柳人は作り手、読み手からしても余りに省略が過ぎて一般的ではない。
何より東北で旗幟鮮明に川柳活動を行っている佐藤岳俊の歴史ある「川柳人」にも大きな敬意を払う必要もある。
 芳醇な酒を
木津川計先生の提論は大きく分けて二つあった。
一つは「どう呼ぶのか」、二つ目は他の短詩文芸、詩、短歌、俳句と比肩していくには、というものであった。
革袋の名称がどう呼ばれようとそれに注がれる酒が濁っていたり腐臭を放つものであるなら何の意味もない。
そう考えればむしろ二つ目の提言がより肝要ともいえるだろう。
「人に非ず」の俳人はその革袋に芳醇な酒を注ぐことによって現在の位置を確立したのである。
赤と白との陶芸家
佐賀県の西部に位置する有田町には軒を連ねて二人の人間国宝と呼ばれる陶芸家がいた。
今は15代となっているが先代の第14代酒井田柿右衛門と井上萬二がそうだ。
二人は13代柿右衛門の兄弟弟子だった。14代は伝承の「赤絵」を、萬二は白磁の造形美を追求した。
この有田焼は400年の歴史を持ち昔は古伊万里とも呼ばれ中世のヨーロッパでは絶大なる評判と支持を得た。
陶冶の人
佐賀県武雄市。古くからの温泉で栄えた街である。
武雄温泉の入り口にある楼門は東京駅や日本銀行を手掛けたあの佐賀県出身の建築家、辰野金吾 (1854年~1919年) によるもの。その楼門の近くにこれもまた歴史を刻んだ老舗旅館がある。
何しろあの宮本武蔵が修行の途中に立ち寄り冷水で身を清めた、という井戸まであるのだ。
その日はまだ夕飯までにはかなりの時間があり早めに到着した私はまず評判の風呂場に向かった。
湯気の向こうに先客一人。ほどなく洗い場を流し客が使った湯桶を一つひとつ元の場所に重ね軽く会釈して出て行かれた。
年齢の割には逞しい体躯だった。恐らくこの旅館の関係者、との印象を持ったことだけをよく覚えている。
その半年後、仕事を通じてこの「関係者」があの井上萬二と知った時は驚いた。
それから10年間、人間国宝の人として、を学ぶのだが、いつかもう故人となられたご夫人にこのことを話したことがある。
「そうねえ。難しいところはあるけどそんなところはありますね」、とぽつり。
「人間性が作品に出る」というのは陶芸界ではよく聞いたことばだった。
陶冶とは、「陶器を造る、鋳物を鋳ることから人間の性質を円満完全に発達させること、という。
 伝統とは革新
井上萬二は、400年の伝統をどう継承していくかを問われこう答えた。
「伝統とは古伊万里と言われたものを忠実に再現していくことではない。古い良きものに常に革新を加えていくことだ」。
二人の人間国宝は13代酒井田柿右衛門という師匠に「陶」を学び、赤と白とに分かれた二つの道をどこまでも陶芸を極めるために歩き始めたのである。
 人間探求
似たようなことを聞いたことがある。
「われわれは伝統川柳のワクを越えこれから私たちの川柳を本格川柳と呼ぼう」といった岸本水府。
「川柳は人間陶冶の文学。命ある句を作ろう」の麻生路郎。「無明の人間を探求しよう。あの壁を僕らで突き破るのだ。この道を歩こう」の川上三太郎。そして村田周魚、前田雀郎、椙元紋太の6人。
私たちは先人、先達といわれた明治期の井上剣花坊と阪井久良岐、そしてこの六大家と呼ばれた川柳指導者を持っている。
短歌、俳句のそれでいえば松尾芭蕉や正岡子規、高濱虚子などである。
全国の殆どの川柳結社、川柳誌がこの流れを汲むと言ってよいだろう。川柳という革袋に新しい酒を注ごうとした人たちだ。
不幸な時代
260年の歴史を持つ日本の伝統文化川柳には「極めて不幸な」時代があった。連歌の発句は俳句に、という説に倣えば、前句付けから生まれた川柳。このように日本の短詩文芸として出発しながら「狂句」と呼ばれる時代が文化・文政の年月を中心として全国に流布した。
「極めて不幸な」という指摘はあくまで川柳を日本の伝統文芸として捉える人々、とりわけ先の六大家たちを系列とした人たちの言い分であって世間の思いを代弁したものではない。
世間の人々は殆ど口を揃えて言う。「川柳とは面白可笑しく人間や世相を皮肉ったものでしょう」。これには「みだらな内容を持つ川柳」の破礼句(バレ句)やダジャレ、言葉遊びも範疇に入る。
この認識は今にして世間の一般的な「声」として存在する。
世間とは私たちを取り巻く人間社会、世の中を指すが知的階級といわれる放送や新聞はじめマスコミなどもある意味で「世間」の例外ではない。
全国紙の一つであるM紙の「万能川柳」の選者はコピーライターであることでもお分かりだろう。
その他「サラリーマン川柳」はじめ「シルバー川柳」「女子会川柳」や会社のCM、PR川柳などは一つの地位を固めつつある「世間の川柳」といえる。私はこれらを私たちの川柳と区別して「商業川柳」として区分けしているがこれらには大きな特徴と共通点がある。それは作者の匿名性、川柳の大衆性、普遍性などである。
また別の意味で内容的には大きな違いはあるものの、結果的に川柳という短詩の市民権を広範に根付かせてくれたのも世間の川柳といってよいだろう。
 個の表現
「誰がどう表現するか」ということは表現者にとって最も大切なことである。これは何も川柳に限ったことではない。
以前、「折々のうた」という囲み記事があった。朝日新聞に連載されたそれだが取り上げられる短詩は詩、短歌、俳句などに限られていた。川柳は、と待ったが「武玉川」は見るが現代川柳が取り上げられることはなかった。
ただ一度「挨拶もなく脾臓とは別れたり」は今川乱魚の「癌と闘うユーモア川柳乱魚句集」からのものだった。
その時、乱魚さんはまだ健在でこの掲載を共に喜びあったことを覚えている。
「折々のうた」は作品の背景を決められた文字数で的確に述べられた。ここで貫かれたものに「誰がどう表現するか」であった。当然のごとく作品と作者の環境とがピタリと重なりあった。結果、掲出作品の虚構性を記述することはなかった。匿名性の強い「なりすまし」の川柳などは執筆者の大岡信にとってとても短詩文芸と呼べるものでもなかったのだろう。
若くして父を亡くし、生前の父と子の葛藤の連作、「現代短歌」が表彰されたことがある。
しかし、表彰後に判明したのは作者の父は健在であることだった。
指摘に対し歌人は「元気な父より亡父の方がより読み手の共感を呼ぶと思った」。
似たようなことは川柳界にはいくらでもある。
地方の大会で妻を亡くし独り飯を焚き、晩飯を食う男の川柳が特選になった。
隣の人に「亡くなられたのですか」「いえ健在です」。
短歌界では衝撃波が走るが川柳界ではまるで凪の風鈴。チリンとも鳴らないどころか拍手さえ起きる。

大岡信の心のどこかにあの「極めて不幸な時代」の川柳が存在していた、との確信を私は未だに捨てきれずにいる。
当時、朝日新聞は時実新子の川柳を繰り返し取り上げ論評する機会が多かった。
それでも大岡信は新子や森中惠美子川柳に手を伸ばすことはなかった。
  他山の石
明治以降に興った「100年の『狂句』という負債は100年を掛けて返すべし」との六大家を始め多くの川柳人たちの運動にもこの頃一部ではあるが新たな動きが出始めた。
「川柳にダジャレを」「言葉遊びを川柳に」という動きである。
「商業川柳」は当然のごと何らかの対価を求める。それは自社の商品や雑誌が「川柳」を媒介としてどれだけ売れるか、付加価値を高めてくれるかである。
それは常に数によって実証される。そのためには間口を広げることは一つの方策だといえる。その手段として敷居を低くして間口を広げることはあっても鴨居を高くすることはまずない。
商業川柳はどこまでも数が物差しとなり質に目を向けることは少ない。
そこから導かれるものは手っ取り早く「狂句もどきもいとわず」ということにもなろう。
商業川柳の関係者は言う。「ダジャレ、言葉遊びにもいいものがある」。
「他山の石」ということばがある。
よその山からとったどんな粗悪な石でもそれで自分の玉を磨くことはできる、という意味で遣われる。
「ダジャレにもいいものが」というその手には他山の石が握られている。
第三世代の川柳とは
この一年で日本の人口は30万人もの人口減となったという。30万の割合は高齢者が多分に占めることは容易に想像できる。
この日本の人口減と「川柳人口減」は恐らく同じ曲線を描いているのは間違いない。
そのための川柳へ「ダジャレ、言葉遊び導入」とはその関係者、指導者の「川柳の人口減」を食い止める方便として語られたものだ。
果たして「ダジャレ、言葉遊び」の導入は川柳人口の増加や呼び水の役目を果たしてくれるのだろうか。
しかし、これはどんなに好意的にみてもアナウンサーの早口ことばや野球選手のバックネット裏の素振りに近いものであろう。早口ことばを電波に乗せることは少ないし、素振りはどこまでも「人知れず」に価値があり特に口に出して言う事柄でもない。
「ダジャレ、言葉遊び」と川柳はその生い立ちから考えてみても似て非なるものだと言えよう。
私も川柳の置かれている厳しい現実やその痛みは共有しているが「ダジャレや言葉遊び」の導入がそれに携わる人たちの「アリバイづくり」ではないことを願っている。
一方これもまた一つの事実として、辞書は警告する。川柳は「卑俗、または知的遊戯に陥りやすい」。
それでも「川柳人口減」の対策はやはり重要な課題だ。しかしこれを「他山の石」や「敷居の低さ」に求めることには今なお大きな疑問が残る。
何故ならあの六大家たちが取り除いてくれたのが「卑俗、または言葉遊びの5・7・5」という大きな石だったのである。
「ダジャレや言葉遊び」は近年取り入れられてきた「イメージ吟」と同列に論じる人もいるがそれには少し無理がある。何故なら前者は「100年の負債」として六大家たちが地下に葬った歴史がある。それを掘り起こすことはあの六大家の否定にもつながりかねない。
第三世代として
この六大家の掲げた灯は岸本吟一、橘高薫風、時実新子そして森中惠美子たち第二世代の手によって受け継がれてきた。あの青森発信の「Z賞」もその一翼を担った。
今はその第三世代だと佐藤岳俊は「川柳葦群」40号で述べている。
玉を持ち上げながら後世に伝えることには大きな汗を伴うが、下に転がすことには造作もない。ポンと足で一蹴りすればよい。
川柳の人口減や高齢化は短歌、俳句も同じだ。その対策として短歌、俳句が質の低下で補うことは選択肢の中にも恐らくないだろう。
それは日本の伝統文化そのものを危うくすることを歴史に学んで知っているからだ。良貨を駆逐するものが何かを知っているからだ。
木津川計先生の提論をお借りすれば、辞書から「バレ句も川柳」の「悪貨」を駆逐することもまた川柳を志す私たちの責任でもある。
 文芸川柳としての訴求力
どんなに使い勝手のよい器でもそれが型で量産されたものに芸術性を見出すのは困難だ。
酒井田柿右衛門は赤、井上萬二は白を極めるように、人間国宝を頂点としてそこから広がる陶工たちは自身の独創性を追求する。
画家や写真家はその絵や被写体に作者の体温やメッセージを託す。
「独創性」はアーチストたちにとって背骨のようなものだ。
このことからもひとり川柳だけが例外であっていいはずがない。
「社会や人間を詠う」に「作者自身の目で見た、学んだ」という接頭語がこれからより重要になってくる。
別の言い方をすれば等身大の川柳、暮らしの匂いの川柳、とでも言おうか。
それは作者自身の暮らしや思想に根差した575であり、言葉の遊戯性からの脱却でもある。
そこから川柳作品の向こう側に作者の姿や影が想像できよう。
地味ではあるがそのことによって川柳としての文芸性や訴求力はいささかでも増大する。
このことを時実新子は短いことばで「わたくし発」と言った。
情念という川柳があってもよい。しかしその作品には作り手としての小さな覚悟も常に必要となろう。
自分のことばで
課題吟に慣れ、なりすまし川柳に何の疑義も持たない川柳界ではあるがこの道こそが六大家の示した道のような気がしてならない。
川柳とは「社会や人間を自分の言葉で表現する短詩」と地道に世間に訴え続けることこそが第三世代の努め、役目でもあろう。

社会の中の川柳
 歯がゆさの一人
送られた川柳誌を読みながらオヤと思ったことがある。それは「国策や世論を二分している事柄の一方に偏った川柳は作らない、選ばない」というものだった。
川柳を構成している骨格はいくつもあるが「批判」というものは最も大切な一つであろう。
一本の釘で留まっている平和
これは私が選を担当している西日本新聞の「ニュース川柳」のある月の秀句である。
遡る6月の2017全日本札幌大会では一強を崩せぬ歯がゆさの一人
を選んだ。
短歌、俳句、川柳。それぞれの強みはあるが川柳に際立つものは「社会性」であろう。
勿論、社会性は短歌、俳句の骨格の一つでもあるが「役人の子はにぎにぎをよく覚え」「役人の骨っぽいのは猪牙にのせ」からの実績であり強みでもある。
「一本の釘」とは言うまでもなく「戦争放棄」の憲法九条である。
川柳は権力に抗う、平和や環境に敏感であり続けたいと願うのは私ひとりではあるまい。
先の二つの川柳は遠く短歌、俳句の及ぶところではない、というのはいささか手誉めだが「社会」は川柳の絶好のターゲットなのだ。
 若い詩人の死
 北原白秋(1885年~1942年)が後に「わが詩歌の體体」と述べた故郷柳川を去り東京へ向かったのは二つの理由からである。
一つは生家の造り酒屋の消失、二つ目は親友中島白雨の自刃によるものであった。
 白雨は中学伝習館の一年後輩。共に名前に「白」を冠して詩歌を競った二人だった。
エドガー・アラン・ポーを原書で読みロシア語も堪能であったという。
時は日露戦争の軍靴の響きが揃い始める頃。
ロシア語が堪能というだけで白雨は露探(ロシアのスパイ)の汚名を着せられ親戚のうす暗い納屋の奥で命を絶ったのである。
白秋が駆けつけた時はまだ命脈を保ち「私のぶんまで」が最後の言葉だった。
時に19歳。日露戦争開戦(1904年2月8日)3日後のことであった。
白秋は、白雨の亡骸を運ぶ釣臺(つりだい)を摑みながら
あかき血しほはたんぽぽの/ゆめの逕(こみち)にしたたるや/きみがかなしき釣臺は/ひとり入日にゆられゆく/と詠んだ。釣臺は自刃した集落、七ッ家と生家、沖の端との約3キロの道のりを揺れたのである。白秋は後年この道を「たんぽぽの道」と称した。
自刃した親戚の家は我が家の近く。村一番ともいえる分限者で集落の秋祭りが行われる社の幟を立てる石柱に寄贈者としてその名は刻まれていることを知ったのは村祭りの世話人になった時だった。
私は20年前、この白雨の死のことを村の古老、住職などに尋ね歩いたがだれも知らない。
「露探」との噂を引き金とした白雨の死は、親族にも地域にとってもどこまでも不名誉なことであったのだろう。
国策はいつの時代も一人の有能な詩人などまるで戦車のキャタピラーの下の野菊ほどの軽さで踏みつけていく。
北原白秋についてはここ柳川市には「白秋会」という顕彰団体はあるが中島白雨についての研究や検証は今のところ進んではいない。
「ひとり入日にゆられゆく」、と詠んだ「たんぽぽの道」から見る夕陽だけが100年前と同じように有明海を隔ててゆっくりと沈んでいく。
 悔いのない人生を
女優、原節子といえば接頭語に「永遠の」がつくほど日本人の憧れの存在であった。
「青い山脈」、「麦秋」、「東京物語」など可憐でしとやかな娘や妻というより嫁を演じた。
「わが青春に悔いなし」(黒澤明監督)は戦後間もない1946年に制作された。
映画は、自由を弾圧された人々の苦悩と抵抗、反戦運動弾圧の犠牲(藤田進)となった夫の遺志を継ぎ新しい世界へ踏み出す女性(原節子)の人生を描いたものだった。
時代背景は満州事変から第二次世界大戦へ。
転向を迫られた主人公の夫は「10年後は私の言動がきっと評価されることだろう。省みて悔いのない人生を」と言い残して獄中死する。
遺された嫁は姑(杉村春子)と僅かばかりの田に田植えをする。
荒れ地を鍬で起こし水を引き、二本の足で泥田にして均す場面は何とも凄まじく切ない。
ピアノを弾いていた指はささくれ立ち、病で倒れながらの田植えのシーンはあの「七人の侍」のクロサワを彷彿させる。
翌朝、田廻りに来た主人公は現実の厳しさに打ちのめされる。
早苗は抜かれ踏み倒され田圃にはむしろ旗が立てられ「売国奴。スパイはこの地に立ち入るべからず」。戦争へと突き進む国策に反戦を唱える人間は売国奴であり、スパイだったのである。
吉永小百合の「母べえ」は山田洋次によるもの。治安維持法の非人間性を両監督とも底流に据えた。
回り続けるキャタピラー
この二つの映画は、時代背景も同じあの、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」の鶴彬と主人公の夫がピタリ重なり合う。
鶴彬。1909年、石川県高松市生まれ。本名喜多一二。これまで多くの川柳誌、川柳人が取り上げてきたので多くは触れないが「枯れ芝よ!団結をして春を待つ」「暁を抱いて闇にゐる蕾」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」などは句碑としてその名を永遠に刻む。
戦争という最も愚かな国策を遂行するための「後方支援」として「治安維持法」というものが跋扈した。民衆も国策を「忖度」、後押した。
この時の治安維持法は当初今回の「テロ等準備罪」と同じように「一般の人は対象外」の法律だった。
日露戦争開戦時、中島白雨が自刃した5年後に鶴彬は生まれたが、かなりの日時を経ても「野の花」を踏みつぶしてゆくキャタピラーは今も回り続けている。
川柳界で今なお広く検証、顕彰される鶴彬は彼が名句を遺したことにもよるがどこまでも反戦と「言論の自由」を守り抜いたことによる。
山にきのこを取りにいっただけでも処罰の対象になるというこの「共謀罪」。
この共謀罪は東京オリンピックという皿に盛られて提出されたがその中身は戦前のものと全く違わない。
これらのことを考えると、川柳界の鶴彬を顕彰し「言論の自由を」との運動は川柳界の誇るべき活動といってよい。
「あゝおとうとよ君を泣く」で始まる、
「君死にたもうことなかれ」は日露戦争へ出征する弟へ寄せた与謝野晶子の詩だ。
これは日本が全国民が戦争へと足並みを揃えていた当時の世相としては極めて大胆な表現であり当然のように世間の指弾を浴びた。
白秋の親友、中島白雨の自死は軍靴の音がかき消した。
当時も今もその背景を深く研究されることもなく、そして今に伝えることの難しさが横たわっている。いつの時代も民衆は国策に対し「忖度」し口をつぐんできたのである。
 二合三勺
山形県出身の井上ひさしは、「本の運命」で面白いことを書き残している。
学校で宮澤賢治の「雨ニモマケズ」を暗唱させられた時のこと。
「『一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食べ』というところは、僕らは『一日ニ玄米二合三勺ト』と教わった。配給の分量と辻褄を合わせてあったんですね」。
先の第二次世界大戦開戦時に井上ひさしの母もまた、「あのアメリカに勝てるわけがない」、と言ったばかりに後年まで「スパイ」呼ばわりにされた、とこの本で述べている。
国策とはかように細部まで目を光らせ、これもまた国策に弱い日本国民の大衆性をよく表している証左でもあろう。
80年前の鶴彬
中国のノーベル平和賞を受賞した民主活動家劉暁波氏がこの7月13日に獄中死した。
贈賞式にも他国の治療も受けさせずその政策は各国の批判を浴びたが戦中の日本ではそれほど珍しいことではなかった。
中国の劉暁波は80年前の鶴彬だったのである。
中国の民主化闘争を象徴する「天安門事件」は1989年に起きた。
一党支配を批判し民主化を主張する劉暁波や学生たちに向けられたのは「銃口」。
当局の、銃口やキャタピラーによる死者は2000人に上ったという。
この天安門事件を批判し、当時の詩、短歌、俳句はこぞって取り上げ作品化した。
しかし、残念ながら沈黙したのは社会の出来事にもっとも敏感であるはずの川柳だった。
川柳の礎をどこに
川柳が歴史に学び狂句と呼ばれた負債を返す、という運動は六大家という先達を生んだ。
川柳は「人間探求の文学」「人間陶冶の短詩」というこれら運動提言、と、鶴彬の「反戦・言論の自由」の顕彰は私たち川柳界の誇るべき二つの指標といってよいだろう。
私たちは一体何のために川柳という日本の伝統文芸に携わっているのか、そして川柳の礎をどこに求めるかを問われ続けられている昨今である。      (敬称略)


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