大阪龍馬会

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津山藩に大奥の記録 和宮の好物はナス 篤姫、未知の肖像画存在か

2009-02-16 14:09:06 | 幕末ニュース
「奥向きの事は親兄弟たりとも一切他言致すまじきこと」--。

 そんな厳しい法度(はっと)があったため、大奥については謎が多いが、津山藩(岡山県津山市)の記録に、第14代将軍徳川家茂(いえもち)の正室和宮(かずのみや)の日常生活や、第13代将軍家定(いえさだ)の正室篤姫(あつひめ)付きの女中の名前など、未知の情報が満載されていることが分かった。東京大学史料編纂(へんさん)所の山本博文教授(日本近世史)が確認した。


 記録は津山藩江戸屋敷の奥女中が書いた「七宝御右筆間御日記(しっぽうごゆうひつまおんにっき)」(津山郷土博物館蔵)。第11代将軍家斉(いえなり)の子、斉民(なりたみ)(1814~91年)を藩主に迎えた31年ごろから、69年(明治2年)までの記録で、計1万ページを超える。


 日記には、「宮様はナスが好きなので献上した」(68年)といった、これまで知られていなかった和宮の個人的な嗜好(しこう)が記述されるなど、奥女中ならではの細かな情報を伝えている。


 さらに、将軍家が江戸城を退去した後の69年には、「天璋院(てんしょういん)さま(篤姫)の自画の掛け物ができた」との記述もあった。73年に撮影された写真をもとにした肖像画とは別の肖像画があった可能性をうかがわせ、今後の研究対象となりそうだ。


 篤姫付きの女中については、これまでの文献では知られていなかった「八重浦」という名前が明らかになったほか、従来知られていた名前も改めて確認された。また、昨年のNHK大河ドラマで名が広く知られるようになった御年寄・瀧山(たきやま)が66年12月、「願いの通り、お暇を仰せつけられた」ことも分かった。日記では、幕府の勢威が弱まったせいか、年を追うごとに女中が辞めていく様子もうかがえる。


 大奥に関する文献は、明治時代になってから、元女中からの聞き書きをもとに書かれたものがほとんど。奉公に上がる際の誓紙(せいし)や女中法度などで、他言を禁じられていたためだが、津山藩では将軍家から藩主を迎え入れたと同時に、藩の奥女中にも大奥の女中を迎えた結果、日記に、“出向元”の大奥との連絡内容が詳細に記されたものとみられる。


 身分制社会の当時、貴人は自ら手紙を書くことがほとんどない。山本教授は「篤姫付きの女中の名前が分かったことで、手紙の差出人にある女中の名前から、篤姫が出した手紙を特定できる。大奥研究の貴重な史料になる」と、日記の価値を高く評価している。(鷲見一郎)


2/13 読売新聞



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