大阪龍馬会

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龍馬石碑に実在しない人物名

2010-10-01 17:00:00 | 龍馬ニュース
 土佐藩の坂本龍馬が1862年に初めて萩を訪れた際に長州藩の久坂玄瑞、薩摩藩の「田上藤七」と会談したと伝える石碑が萩市の松陰神社にある。久坂の日記を根拠に、明治維新100年を記念して1968年、松陰神社維持会が建立した。ところが、幕末の2人の志士とともに碑に名を刻む薩摩藩士をめぐり、疑問が浮上している。「この名の人物は実在しない。久坂の日記の誤記では」―。

 石碑は高さ約3メートル。「薩長土連合密議之處(みつぎのところ)」の碑文や3人の名前は、山口県出身で首相を務めた岸信介が揮毫(きごう)した。

 久坂の日記は「江月斎日乗(こうげつさいにちじょう)」。文久2(1862)年1月1日に「薩摩藩士が樺山三円の手紙を持って来訪」、同14日には「土佐の坂本龍馬が武市半平太の手紙を持って来た」と書かれ、同15日に「薩摩藩士は田上藤七と申す」などの記述がある。

 この「田上藤七」を誤記と指摘するのは、龍馬に関する著書もある防府市の歴史研究家山本栄一郎さん(48)。「田上藤七」の存在を示す資料が鹿児島でも一切見つからないことに疑問を持った。

 調べるうち、長州藩士の堀真五郎(1838~1913年)の「伝家録」に「薩藩田中藤八に同行して薩摩に行った」との記述を見つけた。さらに、同じく長州藩士の野村靖(1842~1909年)の「追懐録」にも「薩州の田中藤八が樺山三円の書を持って久坂を訪ねた」とあった。山本さんは「2人が田中藤八と書いており、久坂の書き間違いと考えるのが妥当」と結論付けた。

 田中藤八(後の頼庸、1836~97年)は薩摩藩士の家に生まれ、明治維新後、伊勢神宮の大宮司などを勤めた国学者で神道家。

 松陰神社の上田俊成宮司(69)は「田中藤八の可能性は高いのではないか。ただ、断定は難しく、碑は変えようがない」と複雑だ。


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