
先週、誕生日を迎えた深夜。
寝床に染みたおしっこを踏んづけた。
100パーセント疑いはネコ。
2匹のネコが50%ずつ、私の疑いを折半し、しれっとしている。
仕方なく居間のソファで朝を迎えた。
「お誕生日おめでとう」より先に「実はお父さんのおねしょじゃないの?」的な子どもたちの視線を浴びながら妻に事情を説明。
毛布・マット・シーツの洗濯という面倒をかけた。
その日の午後、「ハンセン病問題」学習会に参加。
映画「一人になる」を鑑賞させていただいた。
https://www.hitorininaru.com
強制収容、強制隔離、強制労働、強制断種、強制堕胎・・・ありとあらゆるかたちでいのちの尊厳を犯してきた「らい予防法」。
隔離が不要であることが明らかになったあとも、知ってか知らずか法律を黙認して、元患者だけでなく、その家族からいのちの尊厳を奪いつづけてきた「みんな」。
チラシに
群れるな ひとりになれ
みんなになるな ひとりになれ
と。
制作に関わった今回の学習会の講師によると、これは小笠原医師の言葉ではないと。
国策という圧力に屈することなく患者と向き合い続けた姿勢を讃えた表現なのだろう。
「みんな」というのは、コロナ禍でいえば「同調圧力」。
国体圧力の中で「一人」を貫いた医師の信念をみるのか。
孤独にさせたもの。一人にさせたものをみるのか。
そして、いかに「一人」となれたのか。
差別と偏見、人権侵害を「黙認」している「じぶん」というものが炙り出されてくる。
上映後、あるご門徒が語った、
「みんな」っていうのは、「じぶんを隠す」、
「ひとり」っていうのは「じぶんが引き受ける」っていうことじゃろう
という感想に的確さを感じた。
映画に、断種・堕胎の強制のなかで、出産が「黙認」され、誕生した子の存在とその子が「家族訴訟」の原告の「一人」という字幕表記があった。
当時の法律の強制力からいえば、決してこの世に誕生することが許されなかった生命。
「生まれてはいけない子」として生まれ、この社会を生きて、いま「みんな」に問うている。
生後は母親と一緒に暮らすことも、親子が触れ合うこともできなかった。
それでも、だ。
原告団に加わるまでに至った過程はいかなるものだったかと思う。
誕生の背景には、収容所の職員らの「堕胎」を認めないカトリックの信仰があった。
宗教的「黙認」によって殺されることがなかった「一人」。
このいのちを「救われたいのち」と表現できるかどうかは、判決後の「みんな」にかかっている。
職員らが出産に関わったとすれば、それは明らかな法律違反であり、社会的正義を犯す事柄。
社会的正義と宗教的な罪のはざまにこの生命を生み出した「黙認」。
講師は、「究極の人権侵害」は「人権侵害に覆いを被せること」という。
「いのち」を奪うことを「黙認」していること。
「いのち」の尊厳を「黙認」するということ。
誕生日と、翌日の母親の33回忌の命日を重ね合わせながら、私は果たして、お念仏によってどんないのちを(宗教性)をいただいているのかと。
「みんな」でいる必要はない。ただ「一人」でいることは難しい。
「いのち」を問うというより、「みんな」になろうとするじぶんに、「いのち」の方から問いかけられています。
追記
学習会後、帰宅すると、お世話になっているペットクリニックの先生と相談の結果、ネコ2匹の断種手術が決定したという報告が待っていました。
本文に並記するのは憚られますが、追記として。
無事に手術は終わりましたが、ネコの顔に「いのちって何ですか」と書いてあります。
翌日の朝刊には「新出生前診断」についての報道。
命の選別「丁寧に対応」『中日新聞』
https://www.chunichi.co.jp/amp/article/421078
と。
いろいろ頭の整理がつかないまま。
また沈黙。
ナムアミダブツ