遊煩悩林

住職のつぶやき

きほんの共有

2020年10月23日 | ブログ

ご心配をいただいておりました息子の中学の修学旅行が実施され、無事に帰ってきました。

当初は東京方面へ2泊3日の予定でしたが、和歌山へ1泊2日。

Tokyoディズニーランドの予定は南紀白浜アドベンチャーワールドへ。

ミッキーとの出会いは改めて、ジャイアントパンダの優浜に会ってきたそうな。

三重と和歌山は隣県ではありますが、白浜から伊勢は休憩を入れるとざっと5時間。

バスでの道中は、マスク着用でカラオケで盛り上がることもできず、もっぱら読書だったそうだ。

 

さて、秋の読書シーズン。

お寺にも一冊の本が届きました。

『法話のきほん』

https://honno.info/

日ごろ、あたたかいご指導をいただいている組内のご住職の著書です。

目次 http://www.hozokan.co.jp/

坊守が早速、「私、読んでいい?」と持っていきました。

寺報の「坊守コラム」の執筆を控えているので、やる気か?坊守。

本の「表紙」や「帯」「目次」の言葉はいかにもお坊さんのための本にみえます。

ただ、坊守がとびついたのは、法話を「つくる」ためにというよりは、法話を「聞く人」の姿勢はどうあるのかを確かめたいような感じを受けました。

仏さまのお話を伝えようとする人にとって大切なことは、それを聞き取ろうとする人にとっても同様だと思います。

お寺の法座でも、どのように聞けばいいのか、戸惑われる方もおいでになるでしょう。

もしかするとお寺で初めて法話を聞く人にとっては、上手いこと言いくるめられるのではないか、洗脳されるんじゃないかと予防線をはっておられる方もおいでになるかもしれません。

この人はこの私に何を伝えようとしているのか、という聞き方。

「仏教の話は難しくてわからない」という人。

「仏教を学んでみたい」という人。

伝えようとする人だけでなく、聞いてみようという人の入門書でもあるような気がします。

仏教のことだけでなく、身近な人との話し方、聞き方に関係してくることだと思います。

話が一方通行になりがちな、コミュニケーションの難しさ。

コミュニケーションは「伝達し合う」こと。

「する側」「される側」ともに「きほん」を共有したいと思います。

ただ、お読みになって、この「つぶやき」は「きほん」がなってないなというご批判は・・・。

サイン入りが欲しいという方は、お願いしてみます。

 

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知るか知らんか

2020年10月02日 | ブログ

 

善人の家に争いは絶えず

悪人の家に争い事なし

 

SNSにあがっていた法語を拝借して10月のお寺の掲示板に書き出しました。

お説教でよく耳にします。

清沢満之の「二軒屋の譬話」が出典のようです。

いくつかバージョンがありますが、概ね。

善人の家は「私は悪くない」という人たちの家。

私は悪くないのだから、「お前が悪い」と言って争いが絶えない。

悪人は「私が悪かった」という人。

「悪かったね」「いや私の方こそごめんね」の世界。

それのどちらが正しいとか、争いは起こらない方がいいとかの話ではない。

 

コロナ禍における「経済対策」「感染拡大防止」。

「商品券は先着順やで並ばなイカンよ」、「並ぶと密になるでイカンよ」と、ごもっとも。

悪気も何もない善人の発想なんでしょう。

だけどそれは損得勘定とリスクヘッジの言い争いでもある。

いまみんなが自問していることである。

ではここで言う「悪人」とはどんな人間像なんだろう。

世事に翻弄されて、ほんとうに大事なことを忘れておって、まことにお恥かしいことでございます。といったところでしょうか。

善人に言わせてみれば「呑気なもんだ」。

悪人かといって、恥ずかしゅうても病気にはなりとうないし、損もしたくない。

 

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや

歎異抄

 

いくら善人の顔して頑張ってもアカン。

頑張って善人になってホトケさんになるんでない。

いくら頑張ってもホトケさんになれんから、アミダさんがホトケにするって言うてくれとるんでしょう。

にもかかわらず、「そんなお世話をいただかなくても、善を尽くして頑張ります」と善人。

「善」だと思ってたことが、偽モノだったと気づいた時にそれは「悪」だった。

「偽モノの善人でした。よろしくお願いします」と頭が下がる悪人。

ややこし。

善悪を二分化して「どっちか」というのではないでしょう。

もともと悪人なんでしょう。真の善は弥陀の本願にしかない。

こちらでいくら「善」を立てても、人を排除する「正義」にしかならん。

その時その時の都合、それは偽善だと。

知るか知らんか。

偽善の善人をアミダさんは往生させると言うのだから、偽善だと知っとる悪人が往生するのは当然であると。

往生は死んでいくことでなくて、異なりを生きるか、異なりを歎いて生きるか、生き方の問題なのだ。

「知らんけど」の時代だけに、ちゃんと知らせんと。

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縮図

2020年10月01日 | ブログ

今朝、お参りに出かけたら郵便局の前に長蛇の列。

何事か。取り付け騒ぎでも起こったかと妻に問い合わせたところ。

「私も並ぼうと思ってた」

なんてことだ。そんな信用不安が広がっていたとは。

「商品券ね」

「ん?」

正式名称は「伊勢市地域応援商品券」というらしい。

https://www.ise-cci.or.jp/prm/upload/20200914-234020.pdf

コロナによる地域の経済対策だ。

そうと知って、お参り先で得意げに「郵便局前すごい人ですね」と。

「そこまでして・・・」と言いかけたところ。

「いま主人も並んでます」

・・・危ないところでした。

 

さて、コロナ禍における経済対策ではありますが、皮肉なことに市内では感染が拡大傾向にあるようです。

息子の通う中学も臨時休業となり、延期になっていた今月の修学旅行も怪しくなってきました。

学校名が報道されたこともあって、ご心配の声もいただいております。

中には「ご心配の顔」をした、「犯人探し」の類も見受けられます。

市もSNSなどで啓発しています。

https://www.city.ise.mie.jp/

行政の担当者が頑張るのでなくて、私一人がいま本当に大切なことを確かめておかないと。

例えばそれが家族で共有できたとしたら、たとえ旅行が中止になっても何よりの「修学」なんでしょう。

息子には伝わらんかもしれんけど。

「感染症対策と経済対策」の縮図を今朝の行列に見たような気がします。

狭間で「お前はどっちや?」と問われます。

どっちも大事ですが、それ以前に大事なことがあるんだと。

感染者や接触者のフォローを最優先に考える発想を持ちたいと思うのです。

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Go to

2020年09月23日 | ブログ

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入

万善自力貶勤修 円満徳号勧専称

三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引

一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

正信偈 道綽章

秋の彼岸会を勤修。

できうる限りの感染防止対策を施したものの、禍中さほどのご参詣はいただけないだろうと。

どっこい。住職のアテというのは大体がはずれるものです。

「Go to トラベル」「Go to イート」ならぬ「Go to おてら」。

トラベルでなくイートでなく、はたまたTVでもなくシエスタでもなく。

「聞法」にお出かけいただいた皆さま方にお礼を申し上げます。

はたまた、禍中にもかかわらず遠路「説法」にお越しいただいた師あってのことです。

聞法の意欲というのは、自分から起こるものではないと感じました。

環境・状況・時代・社会・・・その中でゾワゾワとする無意識化の不安、その不安そのものが「教え」を求める原理なんじゃないかと。

この不安という事柄を確かめないと、いくらお得に旅をしても、おいしいものを食べても物足りない。誤魔化せない。

この私がいま確かめておかなければならんことは何なのか。

この自分に何が時代や社会、環境や状況から問われているのか。

ご門徒とともに考えさせられました。

 

冒頭は、正信偈の道綽禅師の章。

師から「末法五濁を生きる身」について懇ろにお話をいただきました。

貴重な著書もいただきました。

お分けいただいた分は全て売り切れてしまいました。

ネットでもなかなか手には入りそうにありませんので、師に追加をお願いしようと思います。

「Go To 聞法」

 

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喚び声

2020年09月17日 | ブログ

 

おひがんのお知らせ。

総代さん方と話し合いを重ねて、できるだけの感染対策をしてご門徒と一緒にお参りしようということになりました。

5月の永代経、8月の盂蘭盆会を、僧侶だけの内勤めというカタチで執行しました。

しかしやはりご門徒とともに、いまほんとうに大事なことを確かめておかなくてはならない、そんな危機意識を抱きつつご参詣をお待ちする次第でございます。

そうと決まれば早速、総代はじめ世話人方が感染防止対策ということで、受付における飛沫飛散防止用のビニールを設置。

ご法話をいただく説教机にはアクリル板を。

消毒液をいたるところに置いて。

ご参詣席のレイアウトをシミュレーション。

お参りの方には除菌シートと使い捨てのマスクを配布。

そんなこんなで支度を整えております。

法要そのものも、時間を短縮し、合間合間に換気の時間を設けてのおつとめになります。

どうかご体調の優れない方は、ご無理のないように。

また、おじいちゃんおばあちゃんを寺に送り出すご家族のご心配にも心を寄せつつ。

 

常照寺の墓地における納骨式と追弔会も例年どおり行います。

常照寺の墓碑には「倶会一処」と刻まれています。

ともにひとつところに会う世界を確かめたいと思います。

 

ご門徒あてのご案内には、ご法話をいただく荒山淳先生の言葉を引用させていただきました。

本願の名号「南無阿弥陀仏」が十劫の昔から私に至り届いているのに も拘わらず、その喚び声に耳を傾けて聴こうともしない。

それは何故か。

その本願の名号を、私を助ける仏とは思っていないからである。

荒山 淳

真宗大谷派名古屋教区教化センター『センタージャーナル』110号「巻頭言」より

http://www.ohigashi.net/

 

彼の岸からの喚び声に耳をすませたいと思います。

合掌

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死の向こう側

2020年09月01日 | ブログ

8月が終わってしまった。

そして9月は雨でスタート。

おぼん後の2週間、炎天に身をさらした。

「8月が終わってしまった」というのは、大好きなのです、夏が。

ソーラーパネルのごとく。陽が出てると浴びないともったいないような気がするほど。

例年だと、おぼん後は福島の子どもたちと遊ぶ時間。

今年はウチの子どもたちの夏休みも早々に終わってしまって、子どもたちも遊んでくれない。

で、境内の草を抜き、砂利を掃き、草を抜き、砂利を掃き・・・。

死ぬかというくらいの汗をかき。サウナに行く必要もない。

デスクに向かう気にはあまりなれなかった。暇な割にはパソコンに向かう気も起こらなかった。

そして9月。

そして雨である。

ようやく「つぶやき」を、と。

前置きが長くなりました。

 

親なればこそ 死してなお 子を育てる

 

先月に引き続き、「若藤会」さまの「月のしるべ」のバックナンバーから。

先月の言葉と同時に書いておいたものを、今朝、雨が降り出す前に掲示板に貼りつけた。

「おぼん」「おひがん」と続くこのシーズン。

亡き人が縁となって、この私を仏さまに手が合わさる人間に育ててくださる。

先月に引用させていただいた「手を合わす親の背中に子は育つ」と合わせて味わい深いことばです。

8月のことばも9月のことばも、「親」という表現を、「親」に限定するのではない表現に変換しようかとも思いました。

だけど、ここはあえて「親」と。

パッと読むと、「子」に対する「親」の勤めや役割、任務のようにみえてしまいます。

それではなにか生前の「子育て」の延長で、「親であればこうするべきだ」、「親ならばこうしなければならん」みたいな教訓とか道徳みたくなってしまう。

「親」という表現を変換しようと思ったのはそこです。

だけどここでいう「親」というのは、父とか母に限ったことではない。

かといって先祖代々といいたいのでもない。

逆説的にいえば、この私が仏さまに手が合わさったならば、その手を合わさせたすべての「はたらき」のことを「親」と。

浄土真宗でいえば「他力」だと。

コロナ禍にあって、お盆やお彼岸に墓参りができてよかった、と満足をする私にそれは自己満足であると。

さらにいえば、亡き方々に対してマウント気味の満足ではないかと問いかけてくる。

死の向こう側、彼岸から。

どこまでも生者は「子」なのだ。

「死してなお」というが、身は滅びても育むはたらきは死なない。生きている。

往生。回向。

さて「育つ」とは何が育つのか。

雨音によーく耳を澄ませたい9月です。

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内勤めの公開

2020年08月12日 | ブログ

お盆まいり。

毎年、お寺の勝手なスケジュールに合わせてくださるご門徒の皆さま方に深謝。

4〜5分の勤行のために、毎年かならず家族が揃われるご家庭も、今年はコロナによる帰省の自粛。

何軒かのお家で

「動画撮ってもいい?」

「写真撮ってもいい?」

と。

子や孫に送ります、と。

 

手を合わす親の背中に子は育つ

は、今月の掲示板のことばですが、なるほど人生の先達として遠く離れた子や孫に手を合わせる場の創造です。

写っているのは親の背中でなく私の背中ですけど・・・とにかく。

 

例年15日の盂蘭盆会はすでにご案内のとおり「内勤め」とさせていただきますが、「内勤め」の公開ということも大切なことだと、お盆まいりの風景を送られる親御さんの想いに教えていただきました。

じゃ、さっそく盂蘭盆会の画像をYouTubeに、とはなかなかいきませんが、未来志向に立って閉じていくのではなくいかに開いていけるか、ご門徒のお知恵をいただきながら創造力を膨らませていきたいと思います。

 

 

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不届き者

2020年08月06日 | ブログ

ヒバクシャ国際署名

平和の波

平和の鐘

にご協力ください、と「新日本婦人の会 伊勢支部」の方々が先月みえられました。

その後も何度か足を運ばれて打ち合わせをして、今朝8時15分に10名ほどのご婦人方が鐘を鳴らしていかれました。

ヒロシマの8月6日8時15分を起点に、8月9日11時2分のナガサキまでの間、署名活動をしながら多彩な活動をするのだそうです。

「ご婦人の会」というので、坊守がお手伝いをさせていただきましたが、その中で

こんなにヒロシマへの原爆投下を意識したことははじめて、だと。

知ってはいても通りすぎていたのかな。鐘の音にウルッときた。

と感想を漏らしていました。

 

そんな朝、真宗大谷派のホームページには

首相・閣僚による靖国神社公式参拝中止要請のこと

という見出しがありました。

真宗大谷派ホームページ http://www.higashihonganji.or.jp/news/other/37865/

真宗教団連合における共同の要請です。

真宗教団連合ホームページ https://www.shin.gr.jp/activity/offer/doc/20200804.html

真宗仏教徒としてのスタンスの表明ですが、これがただ組織や教団が言っているというだけでなく、「私一人」というところで考えなくてはならんと、坊守の「平和の鐘」の感想を聞いて思ったことでした。

同時にそれをご門徒とともに共有しなければならんとも。

ただ共有といっても、この要請の立場を共有しなければならないのではなくて、問題を共有するというのが寺のひとつの使命であろうか、と。

 

お盆のお参りに各ご家庭を訪問させていただいても、なかなか問題を共有するようなお伝えができない。

コロナの時代、感染症拡大防止という前提条件の中で、「集まる」のではなく「届ける」ことの大切さという方向性を宗派の議会報告の中でみた。

ちゃんとお届けしなければならない。

ということは、まず自分がちゃんと受け取らなければならないということだ。

人に「届ける」ということの重要さを認識したとき、いかに人を「集める」ことに執われていたのかと。

今まで何か大事なことを見落としていたようだ。

人が集まっても行き届かなければ・・・不届き者か。

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あるある

2020年08月01日 | ブログ

常照寺では7月の中旬から8月の中旬にかけてお盆のお参りをしています。

盂蘭盆会は例年8月15日ですから、8月に入ってからが本格的なお盆シーズンの到来です。

今年は盂蘭盆会のご参拝を中止して、内勤めにする判断をさせていただきました。

常照寺の本堂は、ご参拝のスペースは50畳ほど。

本山の同朋会館のガイドラインで、たたみ4畳あたり1人で受け入れ人数を算定するとありました。

これはあくまでも就寝時のスペース確保の基準ですが、その基準でいけば常照寺の本堂は12人がマックス。

内陣分を考慮すれば20人ほどか。

さりとて新型コロナが収束したら元に戻るという考え方ではなく、時代・社会・地域における相応しい法要のあり方をご門徒の皆さまと創造していきたいところです。

 

さてさて、「お寺あるある」ですが、この時期は「お盆はいつからいつまでで、何をすればよいのか」という質の問い合わせを多くいただきます。

この問いを発端に、霊の支配を解放し、いかに仏教を展開して真宗、念仏というところにたどり着くのか、僧分の頑張りどころです。

迎え火も送り火もない、施餓鬼もしない、御膳も並べない、胡瓜の馬や茄子の牛も飾らないなどと、世間さまの「お盆イメージ」をことごとく破壊している気にもなります。

じゃあ、どうすればいいというのか、と問われても仕方がありません。

ただお念仏を申し上げるのみでありますが、それでは「物足らん」というのが私なのでしょう。

供養したというしるしとなる「何か」がほしい。

その何かを古来からさまざまに表現してきたのが「お盆」なのかもしれません。

 

8月の掲示板に

手を合わす親の背中に子は育つ

と貼り出しました。

 

先代住職が大事に遺してあった「若藤会」さまの「月のしるべ」のバックナンバー、

手を合わす 親の後ろ姿に 子は育つ

をベースにしたものです。

 

家族に死人が出た。今年は初盆だ、と。

「お盆」といって、いつ何をするか。

手を合わせる人の姿を見ていないと育たないことがあるのだ、と。

時代社会は、親や祖父母が仏壇に向かって手を合わせる姿を目にすることもできない環境にある。

核家族といって久しい。感染症でお盆の帰省もままならない。

死者をどういう存在として見出し、どんな願いを受け止めるか。

何かをするお盆ではなくて、何を受け止めるかが浄土真宗のお盆だ。

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謹製

2020年07月15日 | ブログ

 

常照寺謹製埋葬袋のご紹介。

坊守 釋尼晃陽 書の南無阿弥陀仏の六字名号が入ります。

墓地への埋葬時、納骨時に便利・・・。

木綿100%使用で自然に優しい・・・。

などと。商売ではございません。

墓地への埋葬時に遺骨を包む袋状のさらしを坊守が作ってくれた。

俗に「骨袋」というのでしょうか。

一般に布マスクと違って何十枚も必要になることなどないのですからメルカリでは売れんか。

 

常照寺は毎年お彼岸に、常照寺が所有する墓地にご門徒のお骨をお納めしています。

その時に骨壺から、故人の法名を揮毫した骨袋に遺骨を移して納骨します。

これまでは懇意の石材店にお願いして、南無阿弥陀仏の骨袋を用立てていただいてました。

こっちがいつもお世話になっているのに、「いつもお世話になってますから」と、料金を受け取ってもらえないものですから、お願いしにくくなり。

ネット通販で調べてみると1枚約1,000円〜。

坊守は「よし売った!」と(笑)

いやいやそれより今までタダで・・・ありがとうございました。

 

手芸店でさらし布を買ってくるだけのことですから、ご門徒の皆さまにも手づくりがオススメです。

ご家族で御経を書したり、メッセージを書いてもいいのでしょう。

化学繊維のものは土に還っていかないのでご注意を。

 

ところで、常照寺のご門徒におかれては、四十九日の満中陰後に納骨される方がほとんどです。

私が住職になった20数年前は、葬儀後に埋葬されるケースが少なくありませんでした。

当時の墓守(墓地の管理者)さんに、「あんたのとこだけやんな。お骨を家に置いとくの」

(「あなたのお寺だけですよ。葬儀後に埋葬せずに家に安置するのは」の意)」と、お咎めさえいただいた時期さえありました。

ちなみに伊勢では、葬儀後に埋葬する慣例上、告別式の前に火葬をするので、お骨で告別式を勤めることが何の疑問もないほど一般化しています。

今では、埋葬の期日を改めるケースが浸透してきたので、告別式後の出棺という葬儀も増えてきました。

で、当時のことを思うのです。

朝、焼いて昼に埋める伊勢流の葬儀における「骨壺」の有用性は、と。

よくあるのです。

「骨壺を処分してくれませんか」というご依頼が。

今は葬儀社によっては、従来どおり[遺骨/骨壺/桐箱/金蘭のカバー/白風呂敷]のところもあれば、[遺骨/骨袋/桐箱/白風呂敷]と骨壺や金蘭地のカバーを簡略したりと、ご家庭の要望にそった工夫も。

まあ、「お坊さんはいらん」という時代。他にも要らんもんがいっぱい。

お念仏さえあれば。

 

で、ご門徒各位におかれましてはご希望があれば納骨袋をお分けします。

「布地に書くのは難しい」(坊守談)だそうです。

合掌

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