お別れは終わりでなくはじまり。
この私に何がはじまっていくのか。
彼岸は宗教の世界、つまり精神界だが、人間の物理的方向になぞらえて「西方」と。
仏教の世界観として、太陽が没する方角に、いのちが還っていく方向を示すところに救いが表現されている。
そこで、彼岸の世界から問われる。
人は死んだ後に救われると思っていないか。
だとすれば死後の救いとは何か。
果たして死んだ後に救われたいのか。
仏教は生きているものを救うとすれば。
生きているうちに救われるとはどういうことか。
私は救われたいのか。
救いの対象は一体誰だったか。
仏はなぜ私を救うというのか。
親鸞聖人は「悪人」と明確にされる。
明確なのだが、それが「じぶん」であることが明確にならない。
なぜ自分が救われなければならないのか。
差別問題を宗教的課題として確かめる貴重な機会をいただいた。
その視点から。
「差別からの解放」とは。
被差別者が救われると思っているのではないか。
では、差別者が救われるというのはどういうことなのか。
彼岸の救いは、「被」も「加」も、ともに救う。
「被」と「加」の救いが同時に成り立つという世界。
逆にいえば、差別が成り立たない世界をいうのか。
いや、「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という経言からすれば、
彼岸における「差別」は対立構造にない関係性を保っているということだ。
それは互いが尊重し合い、敬いを持って関係するという世界の表現だろう。
お別れは終わりでなくはじまり。
少なくとも、問いがはじまった。
問いしかないが。
ともに彼の岸にたずねてまいりたく存じます。