遊煩悩林

住職のつぶやき

「場」を遺す

2022年05月03日 | ブログ

 

昨日、今日。

ご法事の席で、ご門徒と有縁の方から「いつも掲示板を拝見させていただいております」と声をかけてもらった。

オチは必ず、「なんて書いてあったか忘れましたが・・・」。

忘れるとイカンと思って、スマホに写真を収めてくださっているというので、見せていただいた。

とても有り難く、背筋が伸びる思いです。

で、見せていただいたライブラリには、掲示伝道の文字の画像と、ワンセットで掲示板に貼ってある情報の画像が必ず2枚づつ残っていました。

この2枚目。

昨年から、掲示板の言葉について書いたこのブログのQRコードとお寺のホームページのQRコードを掲示しているのですが。

このQRコードの画像。

曰く、「スマホで読み取ってご覧ください」と書いてあるけど、撮ってもどうにもならんが、と。

えぇっと。。

撮影した画像のQRコードを今度はお孫さんのスマホで読み取って閲覧したのでした。

そういうことか、と。

「この経緯を"つぶやき”に書いてもいいですか」と、了承とともに、そのお孫さんがブックマークに登録してくれた。

おじいさんによる孫への教化活動だと思った。

ちなみに、今月の掲示板には

何かを持っていくことはできなくても

何かを遺していくことはできる

荒山 優

と、昨年の永代経の法話の一言を記させていただきました。

親が子や孫に何を遺していくのか。

同居家族は少なくなりましたが、先人の命日に子と孫が出会う「時」を確保し、教化の「場」を設えておってくださる。

何の何の、往生してなおのおはたらき。

誰かが遺してくれたものを丁寧に確かめないといけないと感じました。

ご門徒各位には、永代経のご案内を近々お送りさせていただきます。

http://jyosyoji.info

 

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仏さまのお仕事

2022年05月01日 | ブログ

ひと月ぶりの投稿になってしまいました。

ひと月の間、音沙汰がなくても誰も何も言ってくれることはありませんが。

大型連休。

コロナ前は、家族や親戚が旅行や行事で揃わないためか、年忌法要などの法事は、その他の土日に比べれば少なかったか。

コロナ中は、とくにどこかへ出かけるということも、親戚が揃うということも難しかったためか、ご家族での法事が逆に増えたような気がします。

さて、まだまだコロナ後という状況ではないかもしれませんが、久しぶりに規制のない大型連休。

お子さまや、お孫さまの帰省に合わせて、叔父や叔母、従兄弟・従姉妹などが顔を揃えるご法事が戻ってきた感があります。

先日、妻の祖父が満106歳を一期として往生を遂げた。

喪主である叔父も、はや80の齢を数える。

当初、子や孫だけのお葬式を、ということで小さな別棟がある葬儀会館を予約。

これは「コロナ騒動」によるひとつの変化かもしれないが、かつて葬儀の参詣者は不特定多数、代非時や香典返しの数もざっくり。

いま、葬儀社にもよるかもしれませんが、「お一人お一人お名前をあげて何人になるか」というスタイル。

そうでないとフィジカルなディスタンスを保てない。

今回の場合、実際にひとりひとりの名前を上げたのかどうかは聞いてませんが、孫とその連れ合いが来るとなるとその子どもがおのずと連れてこられるとなると。

大ホールへの変更。

棺の前で、子どもたち兄弟(といっても皆おじいちゃん・おばあちゃんだが)の記念撮影、いとこ(といってもおじさん・おばさん)の記念撮影、ひ孫たちの記念撮影と。

賑やかな法事となったのでした。

往生してなお忙しくはたらくおじいちゃんの仏さまのお仕事を実感したのでした。

記念写真はともかく、子や孫、ひ孫が、仏さまに手を合わせる人間へのお育て。

散々お世話になりましたが、今後ともよろしくお願いします。

合掌

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人となす

2022年04月01日 | ブログ

花咲かす 見えぬ力を 春という

人となす 見えぬ力を 仏という

藤元正樹

さくら満開の4月のお寺の掲示板に貼り出しました。

師曰く、春になったから花が咲いたのでない、と。

蕾が花となって開いたところにはたらくチカラを「春」というのだと。

ヒトが人間となった時にはたらいたチカラを「仏」というのだ、と。

ヒトが人間として生きるはたらき。

無始よりこの方、数え切ることができないほど散っていった花びら。

その散っていった花々に縁をいただいていま手が合わさるとき、ヒトが人間として誕生しなおす。

ほんとうに尊きことがらに触れて手が合わさる。

ほんとうに尊いことがらを本尊と。

本尊と聞くと仏像をイメージするかもしれない。

仏像が尊いのではないぞ、と。

かの仏のはたらきを尊しと。

私の本尊とは。

この問いは、私は果たして人間といえるのかという問いだ。

尊き事がらに触れて手が合わさるヒトを人間というとすれば。

いま私を手を合わせる人間に育ててくださっているはたらきを見失ってはいないか。

「人道的」という言葉がメディアを飛び交う。

無始より争いの絶えないヒトの世にあって、人間として生きる道とは。

もうすぐ「はなまつり」。

釈迦が「お釈迦さま」とまで表される由縁は、尊び合い、敬い合うところにある。

「オレが」「私は」の一人称ではない。

私と誰かの関係性の上にはたらくチカラを「ほとけさま」という。

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かのきしこのきし

2022年03月17日 | ブログ

此の岸

彼の岸

今生と浄土。

それぞれの場所でともに生きている。

南無阿弥陀仏でつながる感覚。

人間の勤めと、仏さまのはたらき。

最初、タイトルを「このきしかのきし」と書いたら違和感。

「かのきし」を教えられたから、「このきし」を知ったのだ。

だから「かのきしこのきし」と入れ替えてみた。

「かのきし」の「ほとけさま」がいらっしゃってはじめて、「このきし」の「わたし」がいたのだった。

お彼岸の法要を勤めます。

どなたさまもどうぞお参りください。

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べき

2022年03月14日 | ブログ

先週、数年ぶりに東本願寺同朋会館の真宗本廟奉仕団に一泊二日で参加。

https://dobokaikan.jp/hoshidan/

京都市は「まん防」が解除されておらず、会館の徹底した感染対策のもとでの開催。

全国からの参加者や、関わってくださったスタッフのなかには、抗原検査を受けて参加し、PCR検査を受けて地元に帰られた方もいらっしゃったようです。

聞くところによると「奉仕団」の受け入れは、昨年秋の「報恩講奉仕団」以来とのこと。

そこまでして今回集まった奉仕団の名は

「是旃陀羅」問題を考える奉仕団

常照寺のご門徒におかれては、まだまだ説明が足りておりませんが、現在『同朋新聞』に連載されている「是旃陀羅」問題です。

主催した「同関協」は、来年の宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要に、この問題に対する基本姿勢を表明することを目標にしています。

https://kyousan.higashihonganji.or.jp

そのための意見集約の場として、会議室ではなく、寝食をともに膝を突き合わせて互いの意見を出し合い、聞き合う奉仕団の結成に至った。

お経に記載されている差別語について。

その読誦について、現在「読誦」すべきか、「不読」とすべきかという議論が教学的見地、儀式的見地など様々な角度で行われている。

「同関協」は、現場の議論。

ご門徒の法事の席における読誦について。

現場の意見として、読むべきか読まないべきかの「べき」論でなく、「読めない」という感覚を今回の奉仕団では共有しました。

講師は、「不読」に反対する方々とこそ議論を交わしたい、と。

被差別の側にいる人々と直接の対話や応答のない宗教者に対する不信感を述べられた。

水平社から100年。

松本治一郎さん、井元麟之さんの本願寺への申し入れから82年。

そして今回の講師である部落解放同盟広島県連合会委員長の岡田英治さん、昨年お亡くなりになった小森龍邦さんからの問題提起から、もう9年が過ぎた。

問われたことに応える。

対話と応答。

人として、僧侶として、果たす「べき」は何か。

今秋、2回目の奉仕団を予定している。

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時の共有

2022年03月12日 | ブログ

11回目の「3.11」。

西暦でいえば2022回の、令和でいえば3回の3.11がありますが。

11回目の「勿忘の鐘」。

コロナ以降、ご門徒や近隣へのご案内は行わず、寺に居るものだけで「その時刻」に鐘を打とうと。

何もご案内していないにも関わらず、数名の方が「その時刻」に来られ、鐘を打っていかれた。

今月末に開催予定の「福島プロジェクト」のご支援とともに。

http://booses.net

事前のPCR検査などの面倒を超えて三重に来てくれるこどもたち。

コロナの状況次第でいつ中止になるとも分からない状況下で、準備を重ねるスタッフ。

おかげさまの11年。

はなれていても時をともにするということを憶った。

物理的な距離だけでなく、此の岸と彼の岸の居場所は違っても同じ時間を過ごしているのだ。

もうすぐお彼岸。

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難中の難

2022年03月02日 | ブログ

「旧優生保護法」は「極めて非人道的、差別的」。

不妊手術を強いられた人々が起こした訴訟に対して大阪高裁の判決。

ナチス時代、多くの障害者を殺害する根拠となった「優生思想」。

ドイツ、ハダマーの障害者施設の碑には

人間よ、人間を敬いなさい

と記されている、と。

「中日春秋(2022.2.24)」にみた。

https://www.chunichi.co.jp/

今月の常照寺の掲示板。

人間を尊敬することによって自ら解放せん。

水平社宣言

全国水平社が創立して100年。

1922(大正11)年3月3日、京都にて創立大会が開かれた。

大会で読み上げられた創立宣言は日本最初の人権宣言とも。

昨年お亡くなりになられた大谷大学元教授の泉惠機さんが、水平社創立の発起人の西光万吉さんと交わしたという言葉を、また憶った。

全国にはたくさんの寺院がある。

そこには被差別部落をご門徒として抱えている寺もあるし、そうでない寺もある。

あってもなくても、本来、西光さんたちがやろうと立ち上げた水平社は、寺の私たちがきちっとしていたら立ち上がる必要のないことだった。

真宗大谷派『身同』第37号

寺が、僧侶が「きちっと」していれば、水平社は創立することはなかった、と。

仏教の平等覚に基づく、非戦・平等の覚知。

親鸞の同朋精神。

一人の僧として、一人の住職として「きちっと」するとは。

いま、「差別と戦争」の報道の現実に、「非人道的、差別的」事象を放置し続けるじぶん。

何が「きちっと」できていないのか。

人間を尊敬するということも、自らを解放せしむるということも。

どうして「きちっと」できないのか。

求めるベクトルがそもそも違っている。

求めるべきは「幸福」とか"HAPPY "ではなくて、「苦」の共有、苦の現実を生きるということではないか。

「我慢」とか「忍耐」ではない、「解放」。

それが念仏する者として生きるということなれば。

念仏する者となるということができていなかった。

僧侶失格。以前に人間失格。

「人間」の顔をしていても、人間が何なのかわかっていないということだ。

仏教は成仏を志すが、念仏はまず人間になるスタートではないか。

人のふりをして生きているが、人となるということは難中の難だ。

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黙認と沈黙

2022年02月21日 | ブログ

先週、誕生日を迎えた深夜。

寝床に染みたおしっこを踏んづけた。

100パーセント疑いはネコ。

2匹のネコが50%ずつ、私の疑いを折半し、しれっとしている。

仕方なく居間のソファで朝を迎えた。

「お誕生日おめでとう」より先に「実はお父さんのおねしょじゃないの?」的な子どもたちの視線を浴びながら妻に事情を説明。

毛布・マット・シーツの洗濯という面倒をかけた。

 

その日の午後、「ハンセン病問題」学習会に参加。

映画「一人になる」を鑑賞させていただいた。

https://www.hitorininaru.com

強制収容、強制隔離、強制労働、強制断種、強制堕胎・・・ありとあらゆるかたちでいのちの尊厳を犯してきた「らい予防法」。

隔離が不要であることが明らかになったあとも、知ってか知らずか法律を黙認して、元患者だけでなく、その家族からいのちの尊厳を奪いつづけてきた「みんな」。

チラシに

群れるな ひとりになれ

みんなになるな ひとりになれ

と。

制作に関わった今回の学習会の講師によると、これは小笠原医師の言葉ではないと。

国策という圧力に屈することなく患者と向き合い続けた姿勢を讃えた表現なのだろう。

「みんな」というのは、コロナ禍でいえば「同調圧力」。

国体圧力の中で「一人」を貫いた医師の信念をみるのか。

孤独にさせたもの。一人にさせたものをみるのか。

そして、いかに「一人」となれたのか。

差別と偏見、人権侵害を「黙認」している「じぶん」というものが炙り出されてくる。

上映後、あるご門徒が語った、

「みんな」っていうのは、「じぶんを隠す」、

「ひとり」っていうのは「じぶんが引き受ける」っていうことじゃろう

という感想に的確さを感じた。

映画に、断種・堕胎の強制のなかで、出産が「黙認」され、誕生した子の存在とその子が「家族訴訟」の原告の「一人」という字幕表記があった。

当時の法律の強制力からいえば、決してこの世に誕生することが許されなかった生命。

「生まれてはいけない子」として生まれ、この社会を生きて、いま「みんな」に問うている。

生後は母親と一緒に暮らすことも、親子が触れ合うこともできなかった。

それでも、だ。

原告団に加わるまでに至った過程はいかなるものだったかと思う。

誕生の背景には、収容所の職員らの「堕胎」を認めないカトリックの信仰があった。

宗教的「黙認」によって殺されることがなかった「一人」。

このいのちを「救われたいのち」と表現できるかどうかは、判決後の「みんな」にかかっている。

職員らが出産に関わったとすれば、それは明らかな法律違反であり、社会的正義を犯す事柄。

社会的正義と宗教的な罪のはざまにこの生命を生み出した「黙認」。

講師は、「究極の人権侵害」は「人権侵害に覆いを被せること」という。

「いのち」を奪うことを「黙認」していること。

「いのち」の尊厳を「黙認」するということ。

誕生日と、翌日の母親の33回忌の命日を重ね合わせながら、私は果たして、お念仏によってどんないのちを(宗教性)をいただいているのかと。

「みんな」でいる必要はない。ただ「一人」でいることは難しい。

「いのち」を問うというより、「みんな」になろうとするじぶんに、「いのち」の方から問いかけられています。

 

追記

学習会後、帰宅すると、お世話になっているペットクリニックの先生と相談の結果、ネコ2匹の断種手術が決定したという報告が待っていました。

本文に並記するのは憚られますが、追記として。

無事に手術は終わりましたが、ネコの顔に「いのちって何ですか」と書いてあります。

翌日の朝刊には「新出生前診断」についての報道。

命の選別「丁寧に対応」『中日新聞』

https://www.chunichi.co.jp/amp/article/421078

と。

いろいろ頭の整理がつかないまま。

また沈黙。

 

ナムアミダブツ

 

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謝意

2022年02月01日 | ブログ

報恩講勤修。

「まん防」の適用を受け、組内寺院の招待を断念。

「御伝鈔」の拝読は内勤めという事実上の省略。

予定していた映画上映と法話も中止。

「それでも」と、おいでになってくださったご門徒方と勤行。

お逮夜は「五十六億七千万」、ご満座は「弥陀大悲の誓願の」の和讃をいずれも同朋奉讃にて勤めました。

「五十六億七千万」という数字の厳密さを憶いました。

いま兜率天で天人に法を説いておられる弥勒菩薩が、釋尊滅後、五十六億七千万年後に菩薩の行を満了して仏となられる。

自力の修行では、成仏するのに"三阿僧祇劫"の時間を要するとか。

弥勒でさえ成仏するのにあと五十六億年ほどかかる。

だけど親鸞は、他力念仏の信心を歓ぶ人は、その瞬間に弥勒と同じ仏の位に就くことが約束されると阿弥陀仏の本願を讃えてくださる。

これを歓ばずして何を歓ぶべきかという類の話。

さて。

果たして私はそのようなお念仏を歓んでいるかということです。

 

報恩講の勤行後、ご参詣各位にご挨拶を申し上げた。

頭の中に浮かんできたフレーズは、「コロナウイルスの脅威がいち早く収束し、来年こそは従来どおりの報恩講が勤められることを願いつつお念仏申しましょう」。

これは何か違うぞ、と思い留まったものの後は何を申し上げたか。

"違う"というのは、正解は「コロナが収まってもウイルスの脅威は常であり、来年の生命の保証などどこにもない。だから今ここでお念仏の場をともに歓びたい」なんだと。

 

今朝、節分の「恵方巻」の広告を見て教えられました。

「吉凶禍福」に思考が支配されているのだと。しかも無意識にそれに迎合しようと。

それに気づかせていただく一大事だったにもかかわらず、"コロナ"に乗じて報恩講を怠けた感が否めない。

この世に生まれたまことの歓びとは。

「それでも」と懇志をお運びくださった皆さまに謝念を込めて、2月の掲示板。

吉凶禍福

競いておのおのこれを作す

一も怪しむものなきなり

仏説無量寿経

 

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信心歓喜

2022年01月16日 | ブログ

報恩講に向けておみがき。

三密を避け、年頭の世話人会に併せて、世話人のみで行いました。

おみがきの後の世話人会。

冒頭、総代が、昨年逝去されたお二人の世話人さんの功労に触れて、私もそろそろ「恩」を売るのでなく返していかなくてはいけない年になってきたと。

お寺の組織としては、お二人に代わる人選が求められますが、お二人に代わる人などいない。

お二人が焼いた世話は、このお二人だから焼けた世話。

それぞれのご信心に基づいてお気づきになったことを自主的に世話を焼いてくれた。

誰かの指示を必要としないそんなお世話。

多くの方々の世話を遡っていくと「恩」に辿り着くのではないだろうかと思った。

「世話人」という表現はいつからのことか。

「世話人」とは言い得て妙。

福澤諭吉に言わせれば、「世話」には「保護」と「命令」の二つの意味があると。

世話の字に二つの意味あり、一は「保護」の義なり、一は「命令」の義なり。

保護とは人の事につき、傍より番をして防ぎ護り、あるいはこれに財物を与え、あるいはこれがために時を費やし、その人をして利益をも面目をも失わしめざるように世話をすることなり。

命令とは人のために考えて、その人の身に便利ならんと思うことを指図し、不便利ならんと思うことには意見を加え、心の丈を尽くして忠告することにて、これまた世話の義なり。

『学問のすすめ』第14編

保護と命令のバランスが、真に「世話」することだと。

この後にある「大きに(な)お世話」の件など具体的で面白い。

『学問のすすめ』https://www.aozora.gr.jp/

福澤のこうした言論が「近代化」という時代の命題にいくらかの効果をもたらしたのだろう。

しかし「昔かたぎに、田舎の老人が旧ふるき本家の系図を持ち出して別家の内を掻かきまわし」とか、今でも大して変わってないとも思う。

さて、寺の世話を担ってくださる方がだんだんいなくなってきたという愚痴なのですが。

福沢諭吉の「世話の字義」はとにかく、私のパソコンの「せわ」の変換候補には、

【世話】

①気を配って面倒をみること

②中に入って取り持つこと

③手数がかかって苦労すること

と挙がってきた。

「合理性」と「効率」が最優先される現代社会において、「手数がかかって苦労すること」をわざわざ担うということ。

「ゆうちょ」すら「手数料」の時勢。

寺の世話など「骨折り損のくたびれもうけ」ながら、その手間をかけるところに尊さを担保し、生きることの歓びに転化してきたところに「おみがき」が仏事として伝統されてきたことがあるのだろう。

だとすれば、私の愚痴は自分のところに返ってくる。

みがきが足らん、と。

真宗の信心は他力の信心。他力が足らんのでない。

「歓び」の欠如。

たくさんの世話をかけてお荘厳を整え、恩に報いる「歓び」を共有したいと思います。

http://jyosyoji.info

なお、オミクロン株の感染拡大を受けて、三重県内に「まん延防止等重点措置」が発令された場合、報恩講は勤行のみとすることが世話人会で決定しました。

ご門徒各位にはどうかご理解くださいますようお願い申し上げます。

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