2023年に迎える親鸞聖人御誕生850年に向けて、
南無阿弥陀仏
人と生まれたことの意味をたずねていこう
というテーマが発表されました。
http://www.higashihonganji.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/05/テーマの願い・趣旨1.pdf
これは50年前の御誕生800年のテーマ
生まれた意義と生きる喜びを見つけよう
をふまえたものでしょう。
おもえば、物心がついたころから京都(東本願寺)に行くと、外壁に大きく書かれたこのスローガンを目にしてきた。
その文字の羅列が自分に迫ってきたのは、中学生の頃、母親が死んでからのことだった。
生まれた意義とか生きる喜びとか、そんなことも意識することもなく過ごしていた私に、同朋会館の講堂に吊るされた布製のタペストリーに書かれたこの文字が問いかけてきたという感じだっただろうか。
生まれた意義って何なのか。生きることの喜びって何なのか。
やがてその問いは「じぶん」って何なのかという問題に転化されていった。
それがそもそも私がお坊さんという道を決断させた課題だったし、それは今でも教えを聞く動機になっている。
人と生まれたことの意味をたずねていこう
とのスローガン。
何もセンセーショナルなものは感じない。
ただ、あの頃と比べて違うのは「意味」を求めることの意味だ。
意味を求めすぎて「存在」の尊さを見失ってきたという反省がある。
うまく言えないが、「意味のない(意味を持っていない、意味を見出せない)」存在に価値が見出せなかった時間がある。
それは相模原の事件のごとく、そこ(存在)に意味を見出そうとしない「じぶん」、そこ(存在)に尊さを見出す教えを持っていなかったということに過ぎない。
最近、息子とカラオケに行くことがある。
「練習」と称して必ず歌っている歌詞に
ぼくが歩いてきた日々と道のりを
ほんとは"ジブン"っていうらしい
スガシカオ「Progress」
さて、
この世は自分を探しに来たところ
この世は自分を見に来たところ
とは、たびたび出てくる河井寛次郎さんの言葉だが、私のじぶん探しもおそらく後半戦にはさしかかっていることだろう。
いつまで探しとるの?
の声なき声も聞こえてきますが、いのちあるかぎり。
ただし都合の良い探し方はもう卒業しなければならないと思う。
悪意は反省しても 善意の反省はしない私
先月末、常照寺の永代経で荒山優さんのお話を聞いていて、春の彼岸会でお父さんの荒山信さんが
悪意の反省はできても善意の反省はできない
と言っておられたのを思い出したので今月の掲示板にしたためた。
ことの程度はとにかく、「悪いことしたな」の反省はできる。
「善いことをした」つもりでいることを反省することは難い。
他人事ではなく「私」を付して。
「じぶん探し」後半戦の課題は「善意の反省」である。
ただ、それができればじぶん探しも完結に向かうかもしれない。
いつまでもそれができない「私」を言い当てられ続けるしかない。
果たして「だれに」言い当てられるか、だ。
南無阿弥陀仏