遊煩悩林

住職のつぶやき

信じる必要がない

2015年05月19日 | ブログ

今朝、お寺にお参りされた50代の男性。

「ウチは孫ばあさん(ひいばあさん)が信心深くて、祖父母も父母もホトケさんを大事にしてきた。

自分もその影響で大事にしやないかんと思うんだけども、家のホトケさん(仏壇)や墓、ご先祖さんを(自分が)守っているのか。

それともホトケさんが私を守ってくれるのか。どっちなんですかね。」

そんな問いかけがありました。

「亡くなった孫ばあさんやおじいちゃんおばあちゃん、そしてお父さんもお母さんはいったい何を大事にされてきたんでしょうね。」

と問いをかえすことしかできませんでしたが、ただ、「守る」ということの内実について確かめておかなくてはなりませんね。と申し上げました。

「いつまでも若く健康で長生きする」ということが「守られている」ことの中身なのか、それとも明日癌の告知を受けるか、今日交通事故に遭うかわからない私、つまり「必ず老いて病んで死んでいく」このいのちを「まもる」というのでは「質」が異なるのでしょう。

先の問いに答えることはできませんが、思い立って来月の「公開講座」のチラシをお届けしてきました。

講題は「『真宗』は信じる必要のない宗教」。講師は因速寺の武田定光住職です。

個人的にも武田住職の「つぶやき」をいつも楽しみにしています。☞http://park20.wakwak.com/~insokuji/framepage/framepage-jyusyoku.html

「『真宗』は信じる必要のない宗教」である、と。

先の問いかけからすれば、この私が先祖を大事にしようが粗末にしようが、仏壇や墓を大事にしようがしまいが、それとは関係なく如来の慈悲は「いつでもどこでもだれにでも」はたらいている、と。

だから、ホトケさんを大事にしているから、自分が健康でいるというのでない。

世間に漂っている「ホトケさんを大事にせんとバチがあたる」という感覚を打ち破っていく講題だと受けとりました。

「じゃあ大事にせんでもいいんですね」という問題ではないのでしょう。

如来の慈悲が今ここにいる自分に届いていることに気づかされたならば、自ずと「ホトケ」が「ほとけさま」となって尊い事柄になっていくのです。

ご門徒とともに気づかされ続けたいと思います。ホトケさまを粗末にしている私ですから。

ここで「粗末」というのは、「疑う」ということです。ホトケさんを疑う・・・それがもっとも「信」に遠い事柄でしょう。

それでもそれでもです。こちらがいくら疑っていようがホトケさまはこの私を疑わずに信じてくれている。

課題はこの私の疑いを晴らし続けることしかないのでしょう。それはいつも疑い、背いている自分を知らされ続けることでしかありません。

それも「気づく」のではないでしょう。「気づかされる」のです。

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1 コメント

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ご講師さまのつぶやき (釋了典)
2015-06-09 22:34:54
第34回真宗公開講座の講師だった武田定光先生が自身のブログで6月7日にこうつぶやいておられます。
http://park20.wakwak.com/~insokuji/framepage/framepage-jyusyoku.html

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