遊煩悩林

住職のつぶやき

初夢

2017年01月06日 | ブログ

伊勢神宮の正月3が日の参詣が約50万人だとか。

もともとそんなキャパシティじゃないんでしょう伊勢という町は。

インターチェンジを封鎖したり、交通規制したり、バスでスライドしたり、あの手この手でこなそうとするんですが無理もある。

総理大臣のことはじめを伊勢からはじめる必要があるのかどうかはとにかく。

3が日でも渋滞しない寺の前の道路が、首相がおいでになると余波で渋滞の車列が門前にまで及んでくる。

お寺は静かな正月ですから、特段に迷惑を被ったわけではありませんが、なかには迷惑だという人もおいでになる。

迷惑の「ものさし」は、個々の都合に過ぎませんが。

今年の年賀に「正覚大音 響流十方」と記しました。門前の掲示板にも書した。

大晦日から元日にかけて寺の鐘をついた。126吼。煩悩の数ではなくて打数です。

「吼」と数える。正覚の大音が126回「吼えた」、十方に響き流れたとの解釈は私の都合。

なかには迷惑な騒音で睡眠が妨害された「迷惑騒音 睡眠妨害」という人もおいでになるかもしれない。

迷惑の「ものさし」。

なかには「除夜の鐘」をとり止めたり、日中に時間変更したところもあるといいます。

戦時中に武器製造のために梵鐘を拠出してきた歴史からみれば、寺の鐘が鳴るのは平和の証。

伊勢の町は、長い間、何かに配慮して鐘を鳴らさなかった。鐘楼さえ建ててこなかった歴史がある。

それはどんな「ものさし」によるのか。

鐘が鳴る迷惑、鳴らない迷惑。

鐘の音は仏願だと思う。「大音」は音量、ボリュームではない。「大願」だと。

鐘の音が仏教だとすれば、それに迷惑するというのは「廃仏」の感覚。無自覚ではあろうけど。

ただしその「音」によって、それを不快に感じることによって自覚させられてくる。

「自覚」、つまり覚まされてくることがある。

明治の初めの「廃仏毀釈」。仏を廃し、釈迦を捨ててどうなったか。

だいたい仏の教えは自己批判を伴ってくる。「自己肯定」の「ものさし」で聞けば心地よいはずがない。

だけどそれが「覚める」ということだ。

覚まされ続けなければ、いつまでも正月の夢の中のまま一年が過ぎる。

コメント (1)   この記事についてブログを書く
« 響流大音 | トップ | 生きるって? »
最近の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (釈了典)
2017-01-06 12:23:50
海外からのこんな目線を感じながら

http://courrier.jp/news/archives/71942/

コメントを投稿