遊煩悩林

住職のつぶやき

無量寿(如来)=いのち(生命)?

2011年01月25日 | ブログ

真宗大谷派が掲げる宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」を親鸞聖人はどう見るのでしょうか。

「今、いのちがあなたを生きている」というような言い方は宗祖の教えを伝えるものだろうか。
本質的には法然・親鸞を弾圧した側の教えだったのではないだろうかと思います。

1月24日に三重同朋会館で開催された三重教区社会教化小委員会の「無量寿(如来)=いのち(生命)?」というテーマの公開講義で講師の長野量一氏が提起された批判的考察です。
講義は「いのち主義と顕密仏教」と題された同氏講述のテキストを中心に行なわれました。
宗祖の御遠忌のテーマにある「いのち」とは、何を根拠にしているのかということを問う内容でした。
宗祖に根拠のない「いのち」という言葉がどこに由来するのかというのです。
阿弥陀如来は

「世」・「時」という時間において寿命量りなき仏です。正像末の時間軸のなかで言われるのであって、それ以外に宗祖は無量寿に「いのち」というような曖昧な意味を加えることはありません。
ですから阿弥陀仏はもちろん「いのち」そのものではありません。形而上の本体でも母体でもありません。Lifeでも大梵生命でもありません。そのように言い募って、倫理と自覚を強制してきた啓蒙思想であるいのち主義こそが法然・親鸞を弾圧した顕密体制の本質だったのです。

顕密体制とは当時の政治経済と宗教が一体となった構造です。大きな寺社は荘園を所有しています。春日神社の荘園の主は春日権現である。年貢を納めなかったならば、権現が罰を与える。神罰がくだる。現世でも暴力を振るわれ、死んでからも地獄行きで、一揆でも起こすならば、末代まで呪われる。(中略)誠の心を持って勤勉に働いて、嘘偽りなく年貢を納めて背かない、そういう心をはぐくむ教育が顕密仏教の重要な仕事だったのです。

御遠忌法要の直近になって大事な問題を提起されました。

常照寺は今週末、宗祖滅後750年目の報恩講を迎えます。
顕密体制による弾圧事件「承元の法難」の映画を上映する予定です。

ところで100年前の1911年1月24日は、「大逆罪」というでっち上げによって幸徳秋水らが処刑された日でした。
大谷派の高木顕明という一僧侶もまたこれに連座したとされて獄中死を遂げています。
大逆事件」という体制権力による弾圧事件です。
国家を支える警察や検察の体制が問われる今日、裁定に民が加わるシステムのなかで、私たち一人ひとりが「いのち」をどう理解しているのかが問われます。
長野氏は、全国の小中学校で「道徳」の教材になっている「心のノート」の「心」「生命」「いのち」の扱いについても言及されました。

「アメーバことば(Ivan Illich)」とも「プラスティックワード(Uwe P¨orksen)」ともいわれる「いのち」。
「尊いいのち」とか「いのちを大切に」とか、「いのち」自体はっきりしないにもかかわらず、知らないうちに常識的に使ってしまっている私。
その自由に姿を変える曖昧さに絡めとられて教団やその僧侶であるじぶんが顕密化しているとすれば、これほど皮肉なことはありません。
ただ、そのことが確かめられる御遠忌となり、今後の教団の行方を方向付けることになれば、ただのお祭りでなく意義深い御遠忌であったといえるのではないでしょうか。

2010

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