遊煩悩林

住職のつぶやき

浮世ばなれ寺ばなれ

2019年11月01日 | ブログ

いま、お寺は「活性化」が求められているようです。

他人事のような表現をしてしまいましたが、東本願寺のしんらん交流館には「寺院活性化支援室」が設けられ、ホームページにも支援室のページが開かれています。

http://jodo-shinshu.info/shienshitu/

お寺の活性化を支援するといわれると、「お寺の人」からは「まるで普段サボってるみたいじゃないか」とか、「お寺を評価するのか」というリアクション。

ご門徒からは「頑張ってください」と、期待があるのかないのか・・・微妙な声援。

普段、寺に馴染みがない人からすれば、「寺の活性化」ってお葬式をたくさんやるってことだろ、と。

お葬式をしないという時代感覚の中では、それは大事なことに違いありません。

ただ、ここでいう「活性化」は何に対した用語かと考えてみると、それは世間一般に認識されている「寺ばなれ」という言葉に対して用いられているような気がします。

活性化支援の概要はホームページのとおりですが、この「どうして活性化が必要なの?」という項目に、「お寺」は社会の中でどのような役割を果たす場なのでしょうか?とあります。

「社会」における役割ですから、社会的使命、社会的責任を重要視しているのです。

真宗仏教の社会的使命、真宗寺院の社会的責任ですから、活性化といっても単純に参拝客の数や布施の額が増えるとかいうのではないのでしょう。

一般的に、従来どこかの寺の檀家だった人が離壇していく状況をベースに「寺ばなれ」と言っているかもしれません。

しかし内実は、社会に生きる現代人に、寺が接点を持っていないことを「寺ばなれ」というのではないでしょうか。

仮に仏教を求めたとしても、寺は必要がない。仏教は必要だが寺に期待することはないなど、お寺が世間から必要とされなくなってきているとすれば、寺が「浮世ばなれ」しているということです。

仏教に学ぶニーズはあるが、寺がその社会との接点を失っているのではないかという現状認識です。

「寺は昔のままでいい」という声もありますが、時の体制や権力に右往左往してきたことを思えば「昔のまま」というわけにはいきません。

悩みを悩むことさえも難しい時代ですが、実は混迷を極めれば極めるほど接点が生まれる。

世間に寄り添うところに仏がおいでになる。世間を離れて浄土の教えはあり得ません。

社会や社会問題に「接点がない」とすれば、真宗寺院としては機能不全を起こしている。世間の感覚とズレている。

「活性化」は、機能不全を健全化するということでしょう。真宗寺院にそもそも備わっている「社会性」が失われている。それを回復する。

葬式や法事の「おねんぶつ」が、その「接点」なのでしょう。

ということは、です。

故人にいただいた「おねんぶつ」のご縁が、「往相」にとどまって「還相」されない。彼岸が此岸を照らさない。それは真宗仏教でない。

誤解を恐れずにいえば、浄土が死後の話にとどまって、生きている者の課題にならないのであれば、真宗門徒の使命と責任を無自覚に他人事にしている私こそが機能不全でした、社会性を失っておりましたと言わざるを得ない。

真宗仏教の社会的使命、真宗寺院の社会的責任を実践するところに真宗僧侶の名のりがあるとすれば、同時に真宗門徒の使命と責任は何なのか。

真宗僧侶も真宗門徒も私のことですが、「寺の人」だけで考えることではありません。そのことをともに考えていきたいということと、その場が開かれるということが「活性化」という言葉で表現されているのだと思います。

 ここでは「つぶやき」にすぎませんが・・・。

さて、そのことを念頭にしつつ、年末発行の「寺報」の原稿に取りかかっております。

「神都」といわれるこの伊勢の地に、真宗の寺院が開かれてあることの意味を、宗祖の「神祇不拝」観から問うてみたいと思います。

キーワードは、

信心の行者には、天神・地祗も敬伏し、魔界・外道も障礙することなし

『歎異抄』

です。

宗祖が命懸けで遺した言葉をキーワードなどとは不謹慎極まりございませんが、この地域社会、そして平成から令和へという時代にあって、真宗寺院の使命と役割とは何なのか、問題提起を兼ねて今月のお寺の掲示板に発信しました。

宗祖のご祥月です。この言葉を憶念しつつ、報恩講にお参りさせていただきたいと思います。

 

真宗本廟(東本願寺)報恩講

http://www.higashihonganji.or.jp/houonkou/

 

 

 

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