遊煩悩林

住職のつぶやき

然り乍ら

2019年09月01日 | ブログ

D'ailleurs,c'est toujours les autres qui meurent.

Marcel Duchamp 1887-1968

デュシャンの墓碑銘にはこう刻まれているという。

さりながら、死ぬのはいつも他人ばかり

"d'ailleurs "は、翻訳サイトによれば「さらに」「しかも」「とにかく」「どうせ」「なにしろ」「ところで」「いずれにしても」「かつ」「また」「その上」「ちなみに」などと訳される。

それを、碑銘の語が「さりながら」「されど」と訳されているところにひっかかった。

デュシャンの、この「さりながら」の前にはどんな言葉が想定されているのだろう。

「私もいつか死んでいかなければならないのだろうか」・・・さりながら、なのか。

それとも、この世を憂いて「私はもう死んでしまいたい」・・・さりながらなのか。

そんなことを思いつつ、常照寺の前住職が亡くなる直前に掲示板に掲げた蜀山人の

今までは他人のことかと思うたに 俺が死ぬとはこいつぁたまらん

蜀山人(大田南畝)1749-1823

という辞世の句を思い出した。

蜀山人は、今までは他人事だった・・・さりながら、俺のことだったと。

 

さて常照寺の彼岸会に法話をいただく荒山淳さんが、名古屋の東別院の機関紙「センタージャーナル」の106号(2018.9.25発行)巻頭言に、小林一茶の句を紹介されていた。

露の世は 露の世ながら さりながら

一茶

この句との出遇いのエピソードの中で、自己の学びの姿勢を自省を込めて展開されている。

http://www.ohigashi.net/app/webroot/files/detail/files/センタージャーナル%20No.106%28圧縮版%29.pdf


「さりながら」をキーワードに、自己を学ぶ彼岸を迎えようと今月の掲示板に掲げた。

そもそも学ぶということは 人世に自己を学び問うことである

そして新学期を迎え、学ぶことの意味を見失っている子どもたちへ。 

 

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