遊煩悩林

住職のつぶやき

きずな

2011年12月12日 | ブログ

今年の漢字「絆」。
清水寺の貫主がどんな心持ちで揮毫されたのかはわかりませんが、阪神大震災の年が「震」、中越地震の年が「災」だったことを思うとどうも違和感を覚えます。
この違和感は何なのかと自問するのですが、それは「絆を大切に」という肯定的なキャッチフレーズで用いられる印象が強いからかもしれません。ただ

「絆」というのは、もともと馬の足をからめて縛る紐のことで、人を束縛する義理や人情に喩えられたり、自由を奪って人をつなぎとめる意味で使われてきました(同朋新聞2011.11「時言-JIGEN-」)

といいます。そして「絆」で結ばれた仲間やグループの内側では閉鎖的で、外側に対しては排他的な面がそこでは指摘されます。
「強い絆を感じた」という被災者の肯定的な言葉まで否定するつもりはありませんが、一方で「原子力ムラ」という表現に象徴されるような「絆」がはっきりしたのも今年です。
私たちは常に末端のところで何らかの「ムラ」の絆に絡めとられていると思うのです。
時に私自身「(狭義での)『宗教』に閉じこもっているんじゃないか」と友人に指摘されたり、現に内側でも「大谷ムラ(真宗大谷派の教団組織)」という言葉でその構造的な閉鎖性が表現しているような窮屈な絆にどっぷり絡まっていたりするわけです。
個別な事例はとにかく、仏教は、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の迷いの境地に繋ぎとめて縛りつける「きずな」を、横さまに切って解き放つ教えであると教えられます。
「ひとつになろう!」というスローガンは危険なんです。群れて、そうなれないものを排除するんですから。
絆を切らなくてはならないのではありません。切っても切っても絡まってくる足もとの「きずな」に気づかせる眼と、どんな「きずな」に絡まっているのかということを知らせる視点が求められるのだと思います。
年末年始のひととき是非お寺へお出かけいただき、ほとけさまのまなざしにともに触れたいと思います。

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