遊煩悩林

住職のつぶやき

能動的学習

2006年03月24日 | ブログ

昨晩、松阪の無碍光寺にて特別伝道スタッフ学習会が開催された。
南勢一組にて来年度開催される特別伝道(特伝)のスタッフの学習会である。
スタッフは主に住職などの寺族のほか、各寺院からの熱心な門徒によって構成されている。
今回のテーマは「座談会の心得」。
特伝の本講座では毎回「座談会」の時間が持たれている。座談会は話し合いの場である。
以前のお寺の布教のスタイルはお説教が中心であった。そこは話を聞く場である。しかし、ただ話を聞くだけであると、同じ話を聞いていても個人の主観がそこに加わり、それぞれでバラバラな解釈がなされてしまう。極端ないい方をすれば、聞く側の都合によって話がねじ曲げられるということもある。
そこで、大谷派の掲げる真宗同朋会運動ではその教化事業のいたるところに、この座談会と称する話し合いの場が持たれることになった。講義と座談がワンセットになったのだ。この場が持たれることによって、講義や説教の理解をより深めることができると同時に、聞くだけでなく「私はこう聞きました」と発言することによって、自分の考えを整理することにもなる。
従来のお説教を聞くだけの学習は受動的学習であるのに対し、聞いた話をそれぞれが「このように聞きました」と話し合う場を持つことで能動的な学習になる。
確かにお寺に限らず、どんな講演やスピーチでも聞きっぱなしだと深まりがない。中には、ある印象に残った言葉をその人の内面で深く追求していくことはあるかもしれない。しかしその追求がどこかで発表されることによって他者に対して、その人の考えというものがはじめて伝わるのだろう。
であれば、聞いた話を「良かった」「悪かった」「感動した」「面白かった」とかだけで済まさず、どこがどう良くて、悪くて、なぜ感動して、なぜ面白かったのかを話すということは、その人の人となりを話すということでもある。それだけに話をすることは難しいともいえる。
だから、特伝において私たちスタッフの仕事は参加者に講義を受けさせることではなく、いかに個々人が自分の考えを明らかにしていくかということをお手伝いすることにある。お手伝いとは、具体的には参加者らが向き合えるテーマを提供することであったり、なるべくお話がしやすい環境を作ることである。そこで、できるだけ多くの参加者が話し合いに参加して、思ったことを話していただけるか、ということにばかりとらわれがちになることには注意を受けた。「黙っていても参加である」と。
よく一般的に、「発言しなければ存在しないのも同じである」的なことがいわれることがある。私はこの言葉を否定しているのだが、何かもやもやして否定しきれないものを持っていたが、昨晩の学習会で少し吹っ切れたような気がする。
「黙っていても参加である」。昨今の社会情勢を観ていると何かとすぐにコメントが求められ過ぎるように感じるが、偽のコメントではそれこそ存在しないのも同じであろう。真の言葉が出てくるのをじっと待ち続けることも必要である。
そんな姿勢を学ばせていただいた。ただ、じっと待つということもまた難しいことである。

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