遊煩悩林

住職のつぶやき

文化と福祉

2006年02月20日 | ブログ

あいかわらず日常の読経等の法務に加えて法話の原稿や、機関紙の企画書の作成などの事務に追われる毎日。さらに追い討ちをかけるようにオリンピックのテレビ中継。カーリングやボブスレーは個人競技ではないので国別対抗意識から応援に熱が入る。
オリンピックが近づくにつれて特集されたテレビ番組や新聞・雑誌は、団体種目よりも個人競技の代表選手に焦点が当てられたものが多い。メダルの期待が高い選手ほど・・・ということになるのだろうが。によって、知らぬ間に代表選手の名前を覚えて応援に熱が入る。ただの応援であればいいのだが、もはや応援ではない。期待されながらメダルを逃した選手に向かってテレビ越しに、焼酎片手で「何やっとるんや」ではいかにもガラが悪い。それまでの努力や、重圧など完全に無視したところに立っている一視聴者の私である。
「参加することに意義がある」とは古くからの言葉であるが、日本のただの一視聴者にしてみれば死語になってしまったのかとも感じる。「メダルを取らねば意味がない」ような態度でテレビを見ている私は、報道に踊っているともいう。考えてみれば、そもそもオリンピックは私が主体的に興味をもったわけではない。
オリンピックの宣伝によって、報道によって興味を持たされているのだ。

オリンピックはスポーツ文化の国際交流が主たる目的である。開催する側は巨額の費用がかかる。しかし、スポンサーというカタチでそれに便乗すると利益を産む。
もちろんオリンピックは代表選手の努力の上に成り立っているものだが、選手を取り巻く環境を見た時に選手自身が「広告」になってしまう。派手な企業広告などは画面には映らないが、選手が広告になっているのである。その一端を視聴者として構成している。極端にいえばそんなカタチでオリンピックに参加しているといえる。

オリンピックは報道各局の特集やスポンサーCMなどから、否応なしに興味をあおられるわけであるが、その盛り上がりの裏で同じように懸命な努力を続けているパラリンピックの代表選手たちになかなか目が向けることがない。パラリンピックのテレビ中継などはオリンピックに比べるても比較にならない。経済的な負担だけを見るとパラリンピックは金にならないだけではない、金がかかる。選手一人に一人以上の介護が必要になるのだから当然である。それだけにパラリンピックには「参加することに意義がある」精神が生きているようにも思える。また、同じ種目でも金メダルがカテゴリーごとに設けられているので、より多くの参加者にメダルがいきわたることになる。

しかしメダル獲得も経済的な支援の上に成り立っている。代表選手が障害をカバーする機具は高価であるからだ。先進国といわれる国の選手の方がより機能的な機具を求めることが出来るのだ。ある経済的に貧しい国では、代表選手やその介護者を現地に出す費用があれば、病院の建設費に充てた方がよいとする国もあるという。それが善いとか悪いとかいうつもりはない。どこまでも人権意識が問われているということであろう。

さらにいえば、日本ではオリンピック委員会は文部科学省管轄の機関であるが、パラリンピック委員会は厚生労働省の管轄になっている。オリンピックは「文化」、パラリンピックは「福祉」的な位置づけといっていいだろう。経済的な問題を抜きにした時に私の「文化」意識とともに「福祉」への関心の低さが問われる。

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