堕天使マヤ 第三章 遍路歴程・2
『「い」の里より』
「あ」の町から各停に乗って「い」の里駅に着いた。
駅は平凡なアイランド型のホームで跨道橋から見える風景は一面の竹林だった。その先は跨道橋からは見えない。思えば「あ」の町を出てからは、ずっと竹林であったような気がした。
駅前に案内板があったが、竹林の向こうに矢印があって「里に続く」とあるだけで、里そのものは描かれていなかった。
「しかたない、とりあえず歩くか……」
竹林の道は、人がやっとすれ違えるほどの幅しかなく、道以外は大仏さんの背丈ほどに伸びた竹林が、どこまでも続いている。
道は緩やかなカーブが不規則に続いて先も見通せない。鳥の声や小動物の気配はするが人がいるような気配はしない。
やがて水の匂いがした、もう少しいくと、かすかに水の流れる音もしだした。
堕天使どの、少し寄っていかれんか。
後ろから声がしたので、マヤはびっくりした。
振り返ると、通り過ぎた道に小さな枝道があり、声は、その枝道の向こうからしている。枝道の奥に小さな庵があった。
「こんにちは……」
開けっ放しの縁からマヤは声をかけた「あれ?」っと思った。庵の中は六畳ほどの部屋で、真ん中に囲炉裏がある。自在鍵にかかった鉄瓶からは、ゆっくり湯気が上っていて、今まで人がいた気配がする。
「こっちじゃよ」
振り向くと、無精ひげに渋柿色の衣、手には髑髏がカシラに付いた杖の坊主が立っていた。
「一休和尚……」
「まあ、お上がんなさい、茶など進ぜよう」
一休和尚に促されて庵に入って炉辺に座ると、軽い目眩がし、マヤは一瞬目をつぶった。
目を開けると、庵は果てしも無い広さになってしまい、開け放しだった障子さえおぼろの彼方になっている。ただ竹林の気配だけは変わらない。
「どうぞ」
「いただきます」
無骨な手が差し出したお茶は、とても美味しかった。
「水がいいんじゃよ「い」の里で湧いた清水じゃでな」
「それが、この竹林に……」
「ああ、それが途方もない竹林を育てておる。あまりに途方もない竹林なんで、水は川になることもなく竹林の中で消え果てしまうがの。まあ、こうして堕天使どのに誉めていただければ冥加じゃな」
それからマヤは、今までのあれこれを一休和尚と語り合った。
日が中天に差し掛かった。
「あら、もうこんな時間。お邪魔しました……」
マヤは失礼しようと思ったが、庵が広大無辺になってしまったので出口が分からなくなった。
「造作もない、立ち上がればよろしい」
言われた通り立ち上がると、すぐ目の前が縁側だった。
「なるほど」
納得して振り返ると、もうそこには一休和尚の姿も庵も無く、ただ竹林の中の空き地になっていた。
竹林の道に戻り、一時間ほど行くと「い」の里にたどり着いた。
「おお、これは珍しい客人じゃ」
里人たちは喜んでマヤを里長のところに連れていってくれた。里長は、マヤを「い」の泉に連れて行ってくれた。
「これが、この里の命の泉です」
「ああ、命の「い」の字なんですか」
「もう少し深い意味があります「い」はアルファベットでは「I」です「I」は変換すれば「愛」になります。わが里の清水は、竹林を通って川となり、それを世界中に流しているのです。この里と世界が平和なのは、この「い」の泉のお蔭だと、誇りに思っています」
マヤは一瞬口を開きかけたが、あまりに平和そうで楽しげな里長の顔に言う意欲を失った。