浅田真央ちゃんに あいをこめて

真央ちゃんを日々 大好きだぁと つぶやきながら おもに 動画とか ほかもちらぁ
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まえに ちら 書いての 真央ちゃんと ○○○○ って ほかにわ だったら +8つの真央ちゃん動画

2017-04-29 09:43:42 | 日記
まえに ちら 書いての 真央ちゃんと ○○○○ って ほかにわ だったら

ちょっと みつかってのを 書いておこう おもってで

浅田真央3回転半「必ず跳ぶ」小6合宿で成功/連載
[2017年4月13日10時16分 紙面から]
<浅田真央とトリプルアクセル(1)>

浅田真央は21年間の競技生活で何を残し、どう成長してきたのか。
今日13日から連載「浅田真央と○○」で、浅田と関係の深い事柄を1つずつ掘り下げる。
第1回は代名詞ともいえる技「トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)」。
本人のコメント、周囲の証言などをもとに、浅田とトリプルアクセルの関係を探る。

 「ママ、跳べたよ!」。浅田が初めてトリプルアクセルを決めたのは02年、
小学校6年生の時に参加した日本スケート連盟主催の野辺山合宿時だった。
89年の世界選手権で女子で初めて決めた先駆者伊藤みどりさんに憧れ、
何度も映像を見て練習をしていた。この合宿中に、トリプルアクセルを絶対跳ぶと決めていた。
降りたのは突然。確かめるように何度も繰り返した。リンクサイドでは
母匡子(きょうこ)さんが笑顔で見守っていた。
「目標を達成すると、こんなにうれしいんだなと思えた」。自分で決めたことは必ずやる。
スケート人生の指針ができた瞬間でもあった。

初めて出場した07年世界選手権。SPで5位と出遅れ、母から「フリーで2本跳んでみたら」
と提案された。母にとっては、当時トリプルアクセル唯一の使い手である真央が誇りだった。
だが、浅田は「無理だと思う」と拒否。結局フリーで1本にとどめ銀メダルだった。
それから3年後。10年バンクーバー五輪でSP、フリー合わせ、史上初めて
3本のトリプルアクセルに成功する。頑固な性格、トリプルアクセルにこだわるのは母譲りだった。

 6種の中で唯一前を向いて踏みきり、半回転多いジャンプ。
伊藤みどり氏はその難しさを「スピードが必要で、走り幅跳びのよう。
壁に向かって、よし、いくぞという覚悟が必要」と表現する。
体が軽かった10代前半の浅田にとってジャンプは「ぐるぐるとした時、キュッとやれば跳べる」
楽しいものだったが、大人の体になるにつれ、感覚だけでは跳べない、より難しいものになった。

現ルールでは、女子はジャンプ、スピンなどすべてを完璧にまとめた演技が評価される方向にある。
成功率の低い基礎点8・5点の3回転半を跳ぶより、1度で10点以上を取れる連続技を磨いた方
が勝つためには賢明だ。それでも最後の全日本選手権では、トリプルアクセルにこだわった。
指導を始めた10年9月から2年間、基礎を見直すため自粛を促していた佐藤信夫コーチ(75)
でも、止めることができなかった。「彼女の気持ち、やる気を優先させた」。
膝痛を抱え、体力も戻りにくくなった26歳の浅田にとって、最後はこのジャンプに挑むことが
心の支えだった。

 12日の会見では、トリプルアクセルを
「自分の強さではあったと思いますけど、その分、悩んだことも多かった」と話した。
このジャンプに声をかけるとすれば、というユニークな質問に
「何でもっと簡単に跳ばせてくれないの」と笑いながら愚痴った。
最も愛し、苦しめられたジャンプだった。

 ◆トリプルアクセル アクセルジャンプは、6種類のジャンプの中で、
ただ1つだけ前向きに踏み切る。着氷は後ろ向きのため、ほかのジャンプより半回転
多くなるため、難易度は最も高い。3回転半を女子で初めて成功したのは
88年NHK杯での伊藤みどり。それ以降、中野友加里が02年全日本予選で
成功するまで約10年かかった。基礎点は8・5点。

浅田真央が「一番感謝」48歳で他界の母/連載
[2017年4月14日9時44分 紙面から]

<浅田真央と母>(2)

浅田のフィギュアスケート人生を、テーマごとに振り返る連載「真央と○○」
の第2回は、母。
最もそばで見守ってくれていた母匡子(きょうこ)さん(48歳で死去)が、
浅田を大きく成長させた。

 浅田にとって、11年12月9日に肝硬変で亡くなった母匡子さんは「一番感謝している」人。
母はコーチ、トレーナー、マネジャーでもあった。

独学でトレーニング理論を身につけ、記したノートは100冊以上。
その知識でジャンプを左回転だけでなく右回転を練習させ、左右の筋肉を均等にさせた。
覚えたマッサージで練習後の浅田の体をほぐした。
「試合で目が合うと真央が弱くなっちゃう」と試合には立ち会わず、裏方に徹した。

10年バンクーバー五輪。銀メダルで悔し涙を流し、ホテルで待つ匡子さんの元へ。
かけられた言葉は「銀メダルは、ものすごいことなんだよ。がんばったね」。
「お母さんがそう思うなら…」と笑顔が戻った。母が喜んでくれることこそが、価値だった。

 バンクーバー五輪後に母から「もう自分は引退」と告げられた。
急に突き放され「何だろう…」。病の重さを知ったのは、さらに1年を経た11年5月。
スケートを休み、自分の肝臓を移植することも申し出たが、母に断られた。
「やっていることを、一生懸命頑張ってほしい」。母の言葉が、浅田の心に刺さった。

11~12シーズンが始まる前、運転免許をとった。
練習場まで自分で運転し、1人で行動することを覚えた。自炊も板についた。
お母さんがいつかいなくなる-。覚悟し、浅田は変わった。

「あの時期があったから、すごく大人になった」と姉舞は言う。
訪れた母の死。告別式の翌日も浅田は滑っていた。「いつも通りに」が母との約束だった。

14年2月のソチ五輪。浅田は1人で闘っていた。SP16位から迎えたフリー。
悲しみを乗り越え、凜(りん)とした表情で氷上に立つ浅田の姿が、多くの人の胸を打った。

真央の意志、羽生結弦「跳ぶたびに心の中に」/連載
[2017年4月17日9時43分 紙面から]

<浅田真央と羽生結弦>(5)

真央さんの「挑戦」の意志を引き継ぐ。
フィギュアスケートソチ五輪男子金メダリストの羽生結弦(22=ANA)が16日、
仙台市内で行われたイベントに参加し、現役引退した浅田真央さん(26)への思いを語った。
自身のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)の師であり、長年フィギュア界を
引っ張ってきた真央さんを「挑戦の象徴」とたたえ、その意志を継いでいくことを誓った。

グレーのスーツ姿で壇上に立つ羽生は、それまで“浅田さん”と呼んでいたのをやめ、
最後に“真央ちゃん”と呼んだ。
「自分のジャンプを跳ぶたびに、浅田…、うーん、なんといえば…、
 真央ちゃんでいいかな、心の中に生きているんだと思います」。

跳ぶたびに、生きる。その言葉通り、羽生が最も愛し、武器とするトリプルアクセルは
元をたどれば浅田さんに行き着く。
中学1年まで、45分間のジャンプ練習時間すべてを費やしても、トリプルアクセル
だけは跳べなかった。初めて成功したのはジュニア(13~18歳)に上がる直前の
08年夏、長野・野辺山で行われた全日本合宿。

浅田さんらシニアの先輩たちと一緒に滑り、喜々として彼らを観察していた。
浅田さんの、力まないふわっと浮き上がるジャンプを見て「力っていらないんだなぁ」と驚いた。
まねて軽く踏み切ると、跳べた。成功したのは1回だけだったが、氷の上を転げ回るほど
うれしかった。それから9年。「浅田さんのおかげ」と感謝の思いは消えない。

 引退を知った10日夜は、落ち込んで眠れなかった。
浅田さんについて、考え抜いて出た答えは「挑戦の象徴」。
浅田さんは、現役最後のシーズンまで限界を定めず、自分ができる最高のプログラム
に挑もうとしてきた。
その姿は、新たな4回転ジャンプやスケート技術を磨き続け、挑戦することに生きる
羽生に重なる。しかも、技をこなすだけでなく、それを難しく見せず華やかに演じる天性もあった。
その才能に「ずっと憧れてきた」と語った。

今月5日に発表されたアスリートイメージ調査では「華やかなアスリート」で1位が浅田さん、
2位が羽生。2人がフィギュア人気を支えてきたが、11日に羽生は浅田さんにこう言葉を贈っている。

「これからもずっと私の憧れの人です。たくさんの夢をありがとうございました」。
羽生にとってのスターが浅田さんだった。

浅田真央 姿そのものが選手の教材に/連載
[2017年4月18日9時40分 紙面から]

<浅田真央と後継者>(6)

 浅田は多くの「チルドレン」を生んだ“母”でもあった。
05年、15歳で初出場したグランプリ(GP)ファイナルでトリプルアクセル
(3回転半ジャンプ)を決め、優勝。
その姿をテレビで見た子どもたちがスケート場へと向かった。
18歳未満の日本連盟の競技者登録は05年の1769人から翌年は2133人、
16年度は3854人に増加した。

 その中の1人が三原舞依(17=神戸ポートアイランドク)。
昨年10月のGPシリーズスケートアメリカに浅田とともに出場。
初めて一緒に滑り「やっほ」と声をかけてもらえたことを3位に入ったこと
と同じくらい「夢みたい」と喜んだ。

3月の世界選手権では、ショートプログラム(SP)15位と出遅れ、
失意の中で浅田のソチ五輪フリーの演技を見返した。完璧なフリーで6位
と挽回し、ソチの奇跡を再現した。

 平昌五輪のメダル候補、宇野昌磨(19=中京大)にとって
浅田は「人生を大きく変えてくれた人」。5歳の時、名古屋・大須のスケート場で
声をかけられたのが競技を始めるきっかけだった。
「あれだけ頑張らないとトップにいけないんだ、と。尊敬し、手本にしてやってきました」。
シニア、ジュニアが共催された15年のGPファイナルでは、本田真凜(15=関大高)
らジュニア選手が浅田のストレッチ、練習などを熱心に目で追い、学んだ。
浅田の姿そのものが、何よりの教材だった。

 浅田の代名詞トリプルアクセルも、次世代に受け継がれる。
昨年9月、女子史上7人目の成功者となった紀平梨花(14=関大KFSC)は
「少しずつ浅田さんに近づいていきたい」。
国内の多くの女子選手が、試合で跳べる日を夢見て、この大技に挑み続けている。


浅田真央 3回転半の回答はパーフェクト/連載
[2017年4月19日9時45分 紙面から]

<浅田真央と小塚崇彦さん>(7)

現役引退した浅田真央(26)のフィギュアスケート人生を振り返る連載
「浅田真央と○○」の第7回は、幼少期からの親友であり盟友の小塚崇彦さん
(28)が登場。引退会見でのぞいた魅力を語る。

 会見でも終始笑顔を保とうとしていました。
最後も泣きそうになりながら、必死にこらえて。
自分のことをよく分かって、ファンの方が自分がどのようにいてほしいか
を分かっているからこそ、そういう風に立ち振る舞える。
それは彼女が競技生活で身に付けた人間力。

ソチ五輪のフリーの時も「泣いてちゃいけない」と、演技後に涙で笑みを浮かべていましたよね。

 人がどういう風に思って、どうしてほしいかとかを考えるのがすごくうまい。
もちろん芯を持った上で。だからこそ彼女の演技は魅力的だったと思います。
いつも相手の求めに応じて考え尽くす。

会見ではトリプルアクセルにどう声をかけたいか聞かれて
「なんでもっと簡単に跳ばせてくれないの」。あれは僕的にパーフェクト。
緊張する場で質問されてあの言葉がポンと出る。すごいなと。
素直に出た彼女ゆえの回答だなと。

小さい頃から知っていますが、彼女も他の選手同様に負けず嫌いです。
どっちかというとフリーが強かったイメージがありませんか。
SPでちょっとミスしてしまい、ミスを挽回するところで負けず嫌いを発揮している。
よく「ノーミスで」とも言っていましたが、このスケート用語がここまで世の中に
浸透したのは彼女が言い続けていたからでしょう。

 これからは勝負のリンクではなく、表現のリンクで滑ることになります。
プロとして、見ている人が何を求めているのか、それにどう応えるかが
より重要になってくるかと思います。
人間力あふれる彼女がどんな表現で演技をしてくれるのか、とても楽しみです。

浅田真央 好物のかき氷「2杯以上」解禁か/連載
[2017年4月20日9時47分 紙面から]

<浅田真央と食>(8)

浅田は引退会見で、生まれ変わるなら
「ケーキ屋さん、カフェ、レストランをやっていたのかな」とほほえんだ。
スケート同様に愛した「食」のエピソードにも、人柄が表れる。

 基本は和食だ。海外遠征時はきなことしょうゆを欠かさなかった。
14年ソチ五輪ではうなぎパック、赤飯も持参。料理も得意で、
姉の舞さんいわく「シンプルな、おばあちゃんが食べそうな」バランスの
取れた品々が並ぶ。
愛知・豊田市の中京大近くにある「まるか食堂」(昨年頃閉店)には
入学直後から家族と通い、魚、煮物、大根おろしを好んだ。
店員は「猫が食べたように、魚の食べ方がきれい」と証言していた。

 幼い頃から好物は焼き肉。野菜は苦手だったが、07年頃から鍋に入れ、
煮込むことで食べられるようになった。
練習で度々訪れるカナダ・トロントには行きつけのベジタリアンレストラン
「フレッシュ」がある。お気に入りは「ベジバーガー」。

肉を使わないパテや揚げたタマネギなどを挟んだ、食べ応えのある一品だ。
これに揚げたサツマイモを添え、1人でぺろりと平らげる。
「絶対バーベキューソース!」。うまさを力説する目は輝いていた。

 パンケーキなど、甘い物にも目がない。いちご大福を買い求めた和菓子店「福岡屋」
(豊田市)の福岡きみ子さん(66)は「すごく気さくでした」。
12位だった昨年12月の全日本選手権後にも1人で立ち寄った、名古屋市の
かき氷店「あんどりゅ。西大須VIP店」の「ずんだ」も大好物。
沢幡昇志店長(30)は「帽子をかぶった真央ちゃんに気を使って

『“お姉さん”、今日は何にしましょう』と聞いても『“真央”、今日は…』と言っちゃう」
と皆に愛される純粋さを語る。

 常連客が4、5杯食しても、現役時代の浅田は「常時2杯」にこだわった。
沢幡さんは「頑固な真央ちゃんがついに2杯以上解禁か、気になります」
と優しいまなざしで扉を見つめた


浅田真央「清潔感」ずっと1位 契約9社/連載
[2017年4月21日9時50分 紙面から]

<浅田真央とスポンサー>(9)


 浅田真央は、9社とCMやイメージキャラクターの契約を結んでいるが、
全社とも引退後も変わらぬ支援を続けるとした。8社の担当者が浅田の魅力を語った。

◆ネピア 16歳の頃(06年)からのお付き合いです。
柔らかくて、ピュアで、技術があるという点で大変親和性がありました。
浅田さんの愛犬限定パッケージなどコラボ商品は毎回好評でした。
練習だけでなく、大会でも当社の鼻セレブを愛用してくれていました。

◆ロッテ 滑らかなスケーティングは弊社を代表するガーナミルクチョコレート
の口どけを表現するのにぴったり。おかげさまでCMは好評、売り上げも好調です。

◆JAL 練習への取り組み、常に世界NO・1を目指し挑戦されている姿勢に共感。
海外への移動を手伝いたいとの思いから13年に締結しました。

◆エアウィーヴ 09年から海外遠征で愛用されていたこと、ベストを求める姿勢に
共感し11年から契約しました。常に前を向く姿に多くの勇気と学びをもらいました。

◆総合教育・生涯教育機関ECC 夢に向かって努力する姿に共感、
国際社会で活躍できる人材の育成という理念に合致しました。
だれをも包み込むようなピュアな笑顔、表裏のない素直な人柄が素晴らしい。

◆アルソア化粧品 16歳から当社のせっけんを使用してくれていました。
外見だけでなく、心、生き方、挑戦する姿、女性のすべての美しさを伝えるのに
もっともふさわしい方です。

◆佐藤製薬 幅広い世代の方への人気、かぜで苦しむ人々を元気にさせる、
というストナのブランドイメージとフィギュアスケートを通じ世の中を
元気にする姿が合致しました。

◆住友生命 スケートが好きという気持ちを力に進む姿を「好きこそ、無敵」
という16年のテレビCMで描き、大変な反響を集めました。
成績こそ低迷したともいえますが、その圧倒的な存在感は色あせることはなかったと考えています。

博報堂DYメディアパートナーズが08年から実施する「アスリートイメージ調査」
では常に上位にランクイン。特に「清潔感」の項目はずっと1位を保持している。
担当の武方浩紀さん(45)は
「日本社会で群を抜いて支持されている。
知名度、好感度ともに、イチローに並ぶアスリートです」と説明した

浅田真央 雲の上…でも変わらぬ天真らんまん/連載
[2017年4月22日9時48分 紙面から]

<浅田真央と学校生活>(10)

「オリンピックで金メダルを取れるように頑張りたいです!」。
03年3月、浅田が愛知・高針小の卒業式で誓った言葉は、引退会見前後の
テレビ番組で何度も放送された。その場にいた浅井大輝(ひろき)さん(26)は
「みんな『中学生になったら…』といった目標。
スケールが違うな、と思いましたね」と14年前の記憶をひもといた。

 浅井さんは浅田と高針小、高針台中の9年間を共に過ごした。
とはいっても「中学になって、浅田は学校に来られない日が多くなった。
そこから雲の上の存在」と漏らす。
中学3年だった05年には、グランプリファイナルで優勝。しかし、9月生まれのため、
06年トリノ五輪に年齢制限(05年6月30日までに15歳)で出場できなかった。
6月生まれの浅井さんは母と「誕生日、代わってあげたいね」と話した思い出がある。

 国民的人気者の天真らんまんさは、昔から変わらなかった。
小学校高学年の頃、校内でニット帽をかぶっていた浅井さん。背後から近づいてきた
浅田は「あちゃ(浅井さんのあだ名)、明日返すから!」とそれをかっさらい、
走り去ってしまった。「はあ!?」。翌日、戻ってきたニット帽の中には、
ルーズリーフに記された直筆サイン。

浅井さんは「普段、スケートの話も、自慢もしない。だから、あのときは
さっぱりサインの価値が分からなかったです」と頭をかいた。

 休み時間は鬼ごっこをし、運動会ではクラス代表でリレーに出場。
そんな浅田は、旧友にとっても遠い存在になった。連絡先は知らない。
しかし、引退会見をテレビで見て「キャラクターはそのままだな」と感じた。
「『お疲れさま』のひと言です。人並みの生活ができていなかった浅田だから、
落ち着いて、ゆっくりできればいいのかな」。
世間に注目され、登校日には同級生のサイン攻め。そんな中学校生活を知る友は
愛知からそっと、浅田の歩みをねぎらった。

画像まで つけられなくて ごめんなさいです 

そして きょうは こんな 真央ちゃんを みてましたぁ
浅田真央 Mao Asada .::The Light::.


真央ちゃんは おとなに なられても 天使のようだもの

浅田真央 Mao Asada + Angel +


真央ちゃんの これからも 素敵な日々で ありますように 
ねがいながら なつかしの
浅田真央 Mao Asada + Sanctus +


ずっと 真央ちゃん おうえんするぞぉ で やっぱり こちらもみてましたぁ
【浅田真央】切ない歌声にキュンとする【応援してます】


こちらの 動画は かかせないよね やっぱり
浅田真央×KOKIA_この胸の苦しみが愛おしいほどに生きて


真央ちゃん から いただいての ものは かずしれず こころに
いっぱい あってだものぉで
Mao Asada ~君がくれたもの~


真央ちゃんは フィギュアスケーターとしても 人としても 美しいものね
美しい真央


やっぱり こちらも 何回でも みたくなってで
Mao Asada / 浅田真央 Eternity 久遠


そして やっぱり また こちらも みてです
Mao Asada ~Like a Wind~


しめは 元気で 笑顔で これからも 真央ちゃんの進まれての道 おうえんするぞぉで

浅田真央でタマシイレボリューション


あっ やっぱり こちらは かかせない だったに
浅田真央(mao asada) ソチ伝説のFS ~ タラソワ氏の解説(日本語訳付)HD 高音質Ver. 【改善再アップ】


今回は おかあさまの のせようか どうしようか まよいながら 上の動画でしめに

真央ちゃんの これからの道 真央ちゃんの おもうとうりで がんばれ!!!
ずっと ずっと これからも ついてくぞぉ 真央ちゃん 大好きだぁ ぜいぜい 


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