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生きるための塵箱。

いい加減目を覚ませ。

2007年10月30日 | 日常雑記
どうして、今を生きる人間は
安易に自分を悲劇の主人公にしたがるのか

なぜ、簡単に現実から目をそらすのか
大した努力もしないで

社会が歪んでいるなんてことはわかりきったことで
そこに不適応が生じたとしても
社会の中で生きていかなければいけない以上
不適応者のまま居たいならば
飢え死に寸前だろうと、住む家を失おうと文句を言える立場ではないし
そんな人間が贅沢なんてできるわけもない
生まれた家が裕福じゃない限り

そもそも人間が平等だなんていうのも
明らかな嘘だし、能力があろうと努力しようと
手に入れられないものなんて星の数以上にある

その中からせめて自分に少しでも合っているものを探すしか
大多数の人間の選択権はない
至極少数の思い通りに生きられる人間かどうかは
生れ落ちた瞬間に決まっている

自分の夢が叶わなかったから
自分の思い通りに行かなかったから
自分が可哀想?

なめんな ふざけんな
それが普通だ

自分が可哀想と思える余裕のある奴は
まだ幸福なんだ

いい加減気づけ
自分の身の回りに感謝しろ

文字と声。

2007年10月18日 | 日常雑記

久しぶり頭の中で言葉遊びが出来た昨日。
こうやって頭の中で言葉をこねくり回して
自分の今居場所や現状を整理して把握しておかないと
混乱ばかりしてしまって、
時間を浪費するなぁと改めて実感。


時間の浪費と言えば。
メールばかりで連絡を取り合うようになってしまった昨今、
これもまた時間の浪費の一因に頻繁になることだなぁと思う。

文字は目に見えるが故に安心してしまいがちなのだけれど
会話で使う言葉は非常にいい加減で
その場の雰囲気が会話を成立させてしまう。
非言語コミュニケーション、相手の雰囲気だったり仕草だったり
語調だったりという、言葉以外の要因が大きく会話成立に作用しているわけで。

メールという手段が広く浸透した現代社会では
口語と同様にいいかげんな言葉の選択でメールを送ってしまいがちだけれど
メールは結局言葉のみしか伝えない。
他の非言語コミュニケーションをまるっと削除して表面のみを表す機能しかない。
にもかかわらず会話と同じような言葉の選択しかしないでいると
会話がすれ違う、誤解が生まれるなんていうのも至極当然な結果だと
納得せざるを得ない。

結局、何かをちゃんと伝えたいときには相手と向かい合うことが必要だし
そうしなければいけない。
メールより電話、電話より直接会うこと。
一番原始的で一番時間を労することが、
最も理解や共感を得やすい。

文明の力を借りることは必要不可欠だけれど
文明の力に頼りきってしまったらいけないのだろうな。


ジレンマの連鎖。

2007年10月06日 | 日常雑記
人として力量不足だなぁと日々思う。


ネットや、人の紹介を通して
昔以上に多方面の方と出会えるようになった。
嬉しいことだしせっかくの機会なのだから
できればそれが長い縁になればいいなぁと思うのだけれど、
どうも、良い出会いであったり
良いチャンスであったりをうまく生かせていない。

なんだかもったいないと思うと同時に
自分の容量の少なさにちょっとしょんぼり。
仕事と生活がある以上
それ以外で使える時間は限られているのに、
その時間の使い方が下手だから
大事にすべき人間関係がおろそかになっちゃう。
おろそかにしたいわけじゃないんだけど。

いままでもせっかく出会えた魅力的な人たちとの関わりを
切ってしまったり、保てなかったりが沢山あったし
その度にもう少し自分に余裕が、人としての力があったら…
と思ってきたんだけど。
きっと今後もそういうことがまだ度々あるんだろうな。

手ですくえる水には限界があって
際限なく、すくえるわけじゃないことは知っているけれど
それでももう少し手が大きければ
すくい方が違えば…あるいは少しでも多くすくえたんじゃないか
って思うのは欲張りなのかな。

せめて縁のつながっている人をちゃんと大切にしないと。
なのに、その時間を作るのが下手なんだ、やっぱり。
力量不足甚だしい。ジレンマだ。

昔より容量が増えていたとしても
もっと多くの容量を求めてしまうから結局同じ悩みに行き着く。

同じ悩みでも、少しずつ内容が変化して
容量が増えていけばそれでいいのかな。