黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

佃島の建築1

2018-02-14 16:29:28 | 建築
先日オフ会的に催行した街歩き『東京古埋立地と呑み散歩』で、
久しぶりに佃島〜月島へ行きました。
10年前の頃に比べると、なくなった物件も多く、
時の流れを痛感しますが、
かろうじて残存している戦前の建物を、
いくつかとりあげてみようと思います。



佃島は、江戸の初期、
家康が大阪の佃村の村民に領地を与えたことに端を発する、
中州を造成して築造した埋立地で、
北に隣接した石川島とともに、東京湾で最も古い埋立地。



画像は、現在の地図に江戸時代からあった埋立地を重ねたもの。
緑色が御領地、オレンジ色が人足寄場で、この二つが石川島。
そしてピンク色のエリアが佃島。

御領地はやがて幕府の軍艦造船所となり、
明治になって石川島播磨重工へ払い下げられます。
大造船会社「IHI」の名前の由来ですね。

人足寄場とは、
罪人を集めて社会復帰のための職業訓練を行う場所で、
明治に入って石川島監獄署となり、
監獄の移転後は、石川島重工の敷地となります。

地図で、佃二丁目および三丁目と書かれたエリアは、
江戸時代には海だった場所で、
明治27年に、東京湾澪浚(みおさらい)計画によって埋め立てられました。
江戸時代からあった佃島と区別して、
かつては新佃島とも呼ばれていたようです。

現在、石川島の地名は行政上はなくなり、
元来の佃島界隈と石川島の西側が佃一丁目、
新佃島の中央と石川島の東側が佃二丁目、
新佃島の東寄りの狭いエリアが佃三丁目となっています。



それでは新佃島から。
「新」といえど、明治の中頃からの土地。
さらに佃島と月島は、運河が防火の役割を果たして、
戦禍の被害をほとんど受けることがありませんでした。
そのおかげで、戦前の街並が遺る、
東京では珍しいエリアの一つです。


→google map

表通りにあたる清澄通り沿いは、
ほとんどビルに建て替えられていますが、
一本路地を入ると、木造家屋が並ぶ異空間が広がります。
このお宅などは、窓や玄関がアルミサッシュに換えらられている以外、
おそらく創建当時のままの姿で遺っているのではないでしょうか。







上画像の町家造りの二軒長屋の1階を正面から。
左のお宅は、玄関戸も木製のまま。
1階の路面には、綺麗な格子も遺っています。
佃島の格子はこのように、
長い二本と短い二本が交互にしつらえられたものがほとんど。
親子格子と呼ばれる格子の一種だと思います。







その向いには、こんな建家も遺っています。
おそらくこれも、もともとは一つ前と同じ、
出桁の二軒長屋だったのではないかと思いますが、
二階部分を1階の張り出しまでトタンで覆い、
二階の窓を移設したように見えます。
左のお宅は、窓格子が遺っていますが、
右のお宅は二階と同じ鉄製の手摺に変わっています。
そのかわり、玄関引き戸がいずれも木製のまま。
物件によって、劣化する場所の違いがわかります。






→google map

少し歩くと、素晴らしい長屋がありました。
二軒+一軒+二軒の五軒長屋。
右端のヘアーサロンの大幅な改築をはじめ、
ところどころリフォームされてはいるものの、
全体的には創建時の雰囲気を今に伝えています。







真ん中の三軒を正面から。
屋根は、中央のものがオリジナルでしょうか。
屋根の頂点に積む「のし瓦」が意外に高いので、
当初はそれなりにお金をかけた建家だったのだと想像します。
右のお宅は瓦屋根ながら、シンプルなのし瓦、
そして左のお宅は、スレートに変えられてしまっています。

三軒とも二階上部の出桁は、
銅板の鼻隠しを含めて綺麗に遺っています。

二階の壁面は、戸袋を含めて、
下見板張りの右がオリジナルでしょう。

玄関扉の上の明かり窓は中央がオリジナルかと思います。

窓格子は中央と右に遺っていますが、
中央は塗装し直している様子なので、
右がオリジナルかもしれませんね。

リフォームを繰り返しながらも、
かろうじて遺っていてくれると、
震災後の東京の原風景を知る手がかりになると思います。


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