【六本木第三美学乃参考書】=【ブログロテス】since20040926C&D

六本木&LA&香港発、真時代の美の提唱サロン【ロテス(六本木第三美学)】を紐解く為の参考書が、この【ブログロテス】・・・

【シンボリック・ランゲージ~記号言語】

2005年10月19日 04時38分09秒 | Weblog
突然で申し訳無いのだが、
映画「黒路伊吸衂魃(クロイキュウケツキ)」の劇中で、
謎の存在「M公爵」の面白いセリフが在るので、ココに御紹介させて頂く・・・



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【SYMBOLICLANGUAGE】  From M公爵


観た事も聴いた事も無い其の文字、
一体・・・何と読むのか?・・・

其の文字、
「読む」と言う行為だから其の必要性が生じて来る。
其の文字、
「詠む」と言う行為には其の必要性は生じて来無い。

其の文字、
音声化の必要性は無い。
必要なのは鋭角なセンスで在る。
そして、
エレメントを構築する様様な深い意味合い、そんな哲学で在る。

其の基本的スタイル・・・
縦軸横軸そして奥行き・・・
そんな立体的に何重にも絡み合うスタイル。
更には、外見、中身、どちらも重要視される。

「記号言語」「SYMBOLIC LANGUAGE」そんな「ICON」・・・

本来通例的に流通される言語と違い、
一見すると曖昧な印象を受け、
其の総てが不透明に感じられ、ぼやけた印象に受け取られがちだが、
実の所は其の真逆で、
逆に透明度や彩度は増強され、
よりニュアンスは伝わり、
結果、其の本質は剥き出しと成り、
伝達は容易と成って居る。
つまりは、より純度を増して居ると言う訳で在る。

この世には、二番煎じ三番煎じを含め、様様な「記号言語」が存在する。
万が一、其のモノ、
其の本質が伝わら無き場合、
それは、そこに属さぬモノ、
要するに「偽物」と言う事で在る。

数学、幾何学の延長線上の真文学「文字学」
そんな「文字学」のもう1つの重要な顔・・・
それが「SYMBOLIC LANGUAGE」・・・「記号言語」で在る・・・


「漢字」「カタカナ」「ひらがな」「英語」・・・
其の4種の言語を同一線上で、摩擦無く、日常的に、平等に使いこなすモノは、
現実的な話、広大な宇宙の中でも、おそらく「日本」だけで在ろう・・・
だとしたら、もっと「破壊と構築」経由、
「サンプリング&リミックス」・・・
「日本」を中核に其の存在、創って行か無いと・・・

「文字」其のモノの可能性を追求した「SYMBOLIC LANGUAGE」・・・「記号言語」・・・
時代は「読み書き」から「詠み描き」へ・・・
そして「鑑賞する」と言う、
単体の「作品」としての「文字」を「理解し味わう」と言った、
第3の方法論を楽しむ時代へとシフト・・・

でも、それは何も、新しい事では無い。
むしろ「温故知新」・・・「文字創世記」への原点回帰か崇敬か、
失ったモノ達を取り戻す教訓的行為。
「象形文字」に近いニュアンスだが、又別のモノ・・・

「温故知新」と言うよりかは
本来の真の姿を知る為の
「温故知真」と記す方が的確かと。

「SYMBOLIC LANGUAGE」・・・「記号言語」・・・
其の総て「MADE IN DOL」のシワザ・・・
「香港湾仔」と「ヴェニスLA」そして「六本木東京」の3都市からの発信・・・
其のアウトプット・・・「タトゥ-」「ファッション」等、
己と共に存在するモノからの発信が最適。
時代の聖成るアイコン「3」と「水」を・・・味方に付けて・・・




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【「上園磨冬」=「DOLFILM『テロリスト』」】

2005年10月18日 01時03分06秒 | Weblog
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「上園磨冬さんは何をして居る人ですか?・・・」



死ぬ程、同じ質問をされて生きて来て居る・・・
僕を良く知る他人から言えば「アーティスト(芸術家)」だが、
そんな事は自分で言うタイトルでは無い。
「アーティスト(芸術家)」かどうかなんて、
他人が決める事で、自分で言うのは違う様な気がする・・・

僕は只の「ヒッピー」なんだ。
勿論70年代のそれとは少し違って「ネクスト・ヒッピー」の部類なのでは在るが、
ちゃんと受け継ぐモノは「70年代のリアル・ヒッピー」から受け継いで居る。

人前で何かをヤッテ、それに対して対価を頂く・・・
いつだってライヴ・・・
そんなショービズの原点で在り鏡で在るのが「ヒッピー」と言う存在・・・



「ヒッピー」を経由した「ネクスト・ヒッピー」と聴くと、
常に「自由」で、
「ジプシー」で、
「旅」と言うモノを味方に付け、
「思想家」で在り、
「革命家」で在り、
「詩人」で在ると想われ、
それも正しきでは居るが、

実の所、
常に「表現者」で在り、
常に「創り屋」で在り、
常に「哲学的」で無ければ成ら無いのが絶対条件的セオリーなので在る。

そして本番の舞台は、いつだって「路上」・・・つまりは「ストリート」で在る・・・

「マヤカシ的で在るが本物で在る・・・
そしてセクシュアリティーが無ければ成ら無い・・・」
コレも重要な事・・・

更には「笑顔」・・・つまりは「笑い」も重要視される・・・
勿論「シニカル」な「ブラック・ユーモア」も含めての事だが・・・



「ビート」の代表で在る、
「バロウズ」にしても、
「ギンズバーグ」にしても、
「ケルアック」にしても、
今後の「映画界」には非常に重要な役割を担う事に成るだろう・・・

そして何より、
「ヒッピーの神」で在る、
「ティモシー・リアリー」は最重要アイコンと成って来るだろう・・・

其の流れから来るに、
「リチャード・アルパート」「ラルフ・メツナー」も記して置かねば・・・

「無意識的意識」「心理学」「サイケ」「チベット」「曼荼羅」「空海」「密教」
「セロトニン」「フェティシズム」「生と死(逆説)」「A10神経」等の、
危ういが、現実的に重要なキーワード・・・
(※上記「密教」と通例的な形で記しては在るが、DOL的には「蜜教」の事を指し示す。)



そして、
更には「幾何学」的要素が重要視されても来るので、
「コンラッド・ベッカー」も外せ無い1人と成って来るだろう・・・
「マダムチャオ」も同様に・・・

抽象的な表現が故に、
シャープでソリッドで、エッジ在る幾何学的なアイコンが、
より本質を剥き出しにして、痛い程に本質を伝えて呉れる事だろう・・・

そんな「読み取る」から「詠み取る」・・・そして「詠み捕る」時代へとシフト・・・
「ポエトリー」で伝え、
「ポエトリー」から詠み捕るに同じ、
「ポエジー」な「詩学的」なスタイルが主流の時代が創まる・・・



何故ならば、
2006年6月6日から、
「ネクスト・ヒッピー」の時代が創まるからだ・・・

「キューブリック」が生きて居れば、
「ビート」をどう料理し、
「ヒッピ・イズム」の様式美を、どんな形で引き出して呉れたのだろうか・・・
「ネクスト・ヒッピー」の時代に、
生きて居て欲しかった・・・

1つだけ、この世の中に、御願いして置こう・・・
「時計仕掛けのオレンジ」だけは、絶対にリメイクしてはイケナイ・・・
「キューブリック」の魂迄殺さ無いで欲しいからだ・・・

勿論オマージュは大賛成だ・・・
其の「燈」を消さ無い為にも・・・

「時計仕掛けのオレンジ」だけは、絶対にリメイクしてはイケナイ・・・
「アレックス」は「マクドウェル」しか必要無いから・・・



同じ観点より、
「ファイト・クラブ」「スカーフェイス」も同様で・・・
「タイラー・ダーデン」は「ピット」だけ、
「トニー・モンタナ」は「パチーノ」しか必要無いから・・・
(とは言っても「スカー・フェイス」はリメイクなのだが、
明らかにオリジナル版より魂が宿って居たので、例外と言う事で・・・)

「アレックス」「タイラー・ダーデン」「トニー・モンタナ」・・・
「映画」が創んだ、
僕の大好きな「3大スーパースター」で在る・・・



僕が目指すのは、
「大統領」でも何でも無くて、
そんな「実在し無い『銀幕の世界』にのみ存在する『スーパースター』」で在る。
それは、
「マクドウェル」「ピット」「パチーノ」と言う事では無く、
「アレックス」「タイラー・ダーデン」「トニー・モンタナ」と言う存在を意味して居る。

と成れば、そんな「役」を手に入れ無ければ、それは皆無と成る・・・
それが・・・
「上園磨冬」で言う所の、
「クロイキュウケツキ」なので在る・・・
製作が極秘の為、詳しくは未だ描け無いのだが、
いずれ全貌を明かす瞬間(とき)が必ず来るだろう・・・



御免なさい・・・
つい興奮して、話が横道に・・・

それでは、
そろそろ今回の本題に入らせて頂くとします・・・


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「人生を1本の『映画』に捧げて観たら面白いのでは?」
そんな事を幼少期より考え、
今日迄、具現化を試みて居る。

其の映画のタイトルは「DOLFILM『テロリスト』」・・・

「ヒッピ・イズム」のモトに、
ショービズを展開して行く人生を選んで観たプロセスと結果と影響力・・・

それが、一体どんなモノなのか、
形に出来無ければ、只の妄想パラノイア・・・

だから、
両親、そして僕の初代師匠で在るグランドファーザー、
更にはそれ以前の血筋から授かった「センス&スキル」に磨きを掛けて、
「創り屋」として生きて行く・・・
「映画人」として生きて行く・・・
何より「ショーマン」としての「ヒッピー」として生きて行く・・・



其の為には、かなりのモノを犠牲にする覚悟が必要で在る。
逆に言えば、
それだけの犠牲を覚悟し、受け入れ、ヤリ続ければ、
何らかの形には成る・・・
誰だって、それは出来る。
「センス&スキル」が無ければ、其の形の保障は無いが・・・



そもそも「ロテス」自体も、
そんな1つの大きな構想の中に存在する、
1つのカケラなので在る。

人生、色色とヤリたい事は在る、
でも、限られた生涯の中で、総てをこなす事は到底無理な話で在る。

不器用ならば、それはそれで諦めも付くが、
あいにく器用で在るが故、何かと出来てしまう為、
逆に諦めが付かず、手を出してしまい、器用貧乏に成る。

そう成ら無い為にも、
自分に鞭打ってでも、
其の出来てしまうモノを、もう一度観直し、よりミニマムに削ぎ落とし、
何かに集約して行く必要性が出て来る。

それが、僕の場合、
「映画」だったと言う訳・・・
其の中に「ロテス」が存在し、
それを現存させる為の1つとして「ブログロテス」が存在して居る。
そう・・・総ては、たった1つの作品の為なので在る・・・



「映画」には、
自分が表現したい要因を総て詰め込む事が出来る。
そして1度詰め込んでから、
「360度球体観測」により、よりミニマムに、よりストイックに、
サディステイックにスパルタに、
削り削って行く・・・
そして、いつしか中核のみが剥き出しと成り、
1つの完成へと辿り着く・・・

其の「映画」が「テロリスト」と言う事だ・・・



大きく分けて、
「雨」「ドラキュラ」「六本木」と言う「3部構成」に成って居る其の「映画」は、
僕自身の「生きる術」「生きる総て」を集約させて居る。

戯曲を含め、其の総ては「2003年3月3日」の日に終了させて居る。
そして、それを、
其の日から毎日毎日、編集して居る。

「ドキュメント」で在る部分は、
日日、それをコンティニューさせる事により、
より形が形成されて行く。
例えば「ベラキバ」にしても、其の一部で在る。

タトゥーにしても、
其の主人公の人物像のドローイングや文献に在るモノを、
忠実に、肉体に、実際に刻み込ませ完成させて行く・・・

そんな「2003年3月3日」迄に完成させた「青焼き」を、
毎日毎日続行させて行って居るのだ。

それを想像で無く、
実際に現実の世界に創造して行く行為を・・・

勿論、
其の「続行と創造の為に人生を捧げる」と言う事は、
其の「人生の為に続行と創造を捧げる」と言うのに同じ事だから、
実際問題、
「『役』や『表現』を形にするの為に『生きる』」と言うのも正しきだが、
「『生きる』為に『役』や『表現』を形にして居る」と言うのも又正しきと言う事と成る。

そして、其のどちらにも言える事は、
確実に「死」に向かって居ると言う事・・・

「死」を以て・・・「生」を表現して居るので在る・・・
生と死の間(ハザマ)の中で、それを続行し、創造し続ける人生を選んだだけの話・・・



己の肉体の総てを使い、戦慄の旋律「テロリスト」を奏でる・・・
「音」「風」「光」を味方に付けて・・・



2006年6月6日・・・
其の扉が開き・・・
いよいよ開幕される・・・



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【P.S.】

「戯曲」と言う名の「青焼き」・・・
「2003年3月3日」迄に完成させた「青焼き」・・・
そこには「2012年12月12日」迄の「青焼き」が記されて在る・・・

一体いつ、
其の中に在る何かが、
どんな形で形成され、
どんな形で発表されるのだろうか・・・

とにかく楽しみに待って居て欲しい・・・



「セリフ」が「オブジェ」に成るのか、
「音薬」が「foto」に成るのか、
「絵画」が「文字」に成るのか、
何が何に・・・変換されるのだろうか・・・



開幕の瞬間(とき)迄、
後八ヵ月半・・・



後戻りなど出来無い・・・
「テロリスト」と言う映画から・・・

「映画」についての解説など要ら無い・・・

其の作品に、総ての総てを詰め込んで居るのだから、
それ以上の解説など要ら無いだろう・・・

世界中にバラ蒔かれし様様な要因・・・
其の要因を自らで集めて、自らで構築して呉れ無ければ、
其の「映画」の全貌は解から無い・・・

決まった期間、決まった場所だけでロードショーするだけの通例的な「映画」とは、
全く以て異なるのが、この、
「DOLFILM『テロリスト』」なのだから・・・



勿論、
其の全体像の中核として、
決まった期間、決まった場所だけでロードショーするだけの、
通例的な「映画」も製作させて頂くが、
それを観るだけよりも、
其の他の外伝的要因に触れて呉れた方が、
より理解出来、
そして何より、楽しめるのではと・・・



1つ1つのサインを観逃すな・・・

そして其のサイン・・・・・・解ドクを・・・・・・・・・



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【P.P.S.】

何故にココ迄「映画」に想いを寄せて居るのかの、
1つのアンサーが【 コ コ 】に・・・



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【「停止」と言う名の「行動」】

2005年10月17日 17時17分17秒 | Weblog
「ロテス」には、些細な質問と言うか悩みが送られて来る。
独自の切り口での提唱を欲しがって居るのだろう・・・
だから真剣に「ヒント」を提唱する。
あくまでも「答え」では無く、
「ヒント」を提唱する。
「答え」など、人に聴くモノでは無いし、自分で思考するモノ。
だから、
「ロテス」は、あくまでも「提唱」だけ・・・
其の「ヒント」と成るで在ろう、提唱だけ・・・

そんな一連の御話も、
いずれは「ロテスクール」にて直接行なえれば良いのだが、
残念ながら校舎は未完成で在る。

そこで今回は、
季節の変わり目、
特に、この秋口の、寒い季節の足音が聴こえつつ在る瞬間(とき)、
切なさも加味してか、
最も多い、質問と言うか悩みと言うかを、
解決に向かわせる、1つの「ヒント」として、
「ロテス」的な提唱をさせて頂こうかと・・・

それでは、どうぞ・・・


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【匿名希望さん】

「何故だか最近、上手く行か無い・・・」


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【ロテス】

「何故だか最近、上手く行か無い・・・」

そんな瞬間(とき)は、
それを否定的に取らずに、
1つの「サイン」として理解する方がクレバー。

「ちょっと、一休みしろ。
視覚で観ずに、感覚で観れる様に、
己自身を『リセット&チューニング』しろ。
「停止」と言う名の「行動」を取るんだ。」

そんな「サイン」として理解するがクレバー。



自らが動き「自転」と成る。
周りが動き「公転」と成る。
そんな「自転」と「公転」が同時に行なわれて居るのが、この世の中・・・

どちらも同時に回って居るのだから、
其のズレが生じる問題も、自然な行為。
其の摩擦が生じる問題も、自然な行為。
何も特別な問題なんかじゃ無い。
「何故だか最近、上手く行か無い・・・」
只の、この世の副産物・・・



「何故だか最近、上手く行か無い・・・」
そんな瞬間(とき)は、
スピードに巻き込まれて居る瞬間(とき)。

観失って居るんだ。
回りも、周りも、自分自身も、何もかも・・・

だから、
上手く行か無い瞬間(とき)、
まずは「自転」を止めて観ればイイ。

そうすれば「公転」だけを、
つまりは「周りだけ」をリアルに観る事が出来るから。
そして周りの動きが観えて来たら、
少しづつ、自分を動かし「自転」を創めるんだ・・・

そしてそれは、いつしか「公転」との同調と成り、
又、上手く行き出すんだ・・・
総てが上手く、行き出すんだ・・・

「上手く行か無い」と言う事を現す他の言い回しに、
「上手く回ら無い」と言う言い方が在る・・・

そこにハッキリと描いて在るじゃ無いか・・・
自らが「回る」と言う行為をして居ると・・・
だったら、1度止めればイイ。
其の回転を、止めれば観ればイイ。

「動き出さ無きゃ」「行動し無きゃ」・・・
焦る気持ちは解かるが、
「回転を止める」と言う行為自体、
「停止」と言う名の、1つの「行動」だと認識しろ。
只、闇雲に休憩して居るのでは無い。
それは、立派な行動なんだ。
「停止」と言う名の、1つの「行動」なんだ。

「停止」と言う名の「行動」を選択し、
たまには脳と心の洗濯を・・・



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【フリー・エイジング論~プロの提議】

2005年10月10日 10時10分10秒 | Weblog
「フリー・エイジング」を提唱する為には、
自らが「フリー・エイジング」出来て居無ければ、
全く以て「茶番」な御話で在る。

一般的に「アンチ・エイジング」「アンチ・エイジング」と言って、
「講演」や「ビジネス」を行なって居る人達は、
何故、
「イイ感じで『年を重ねて』居る」と観える人が居無く、
「只『年を取って』居る」と観える人が多いのだろうか・・・

幾ら「ビジネス」だと言えども、
他の分野の「ビジネス」とは、少し趣きが違う「ビジネス」なのだから、
それを「喰いモノ」にするのは、どうかと想うが・・・



「ロテス」では、
「喰いモノ」にした「ビジネス」など絶対に行なわ無い。
只、能描きで無き「現実の真実」だけを提唱する。
だから、
「イイ感じの『年の重ね方』」を常に念頭に置き、
「プロ」として歩んで行く・・・



しかし、
「喰いモノ」にした行為自体が、
「老化」を招き、促進させると言う事すら解から無い人達に、
コレ以上「アンチ・エイジング」を語らせて良いモノなのだろうか・・・



「フリー・エイジング」を提唱する為には、
自らが「フリー・エイジング」出来て居無ければ、
全く以て「茶番」な御話で在る。

だからこそ、
僕は、
「年を取る」方を選ばずに、
「年を重ねる」方を選ぶ。

とは言っても、
「老化」は絶対に避けられ無い現実で在る。
だからこそ、
無駄な抵抗はせず、
それを受け入れた上で、
最大限に迄、其の「老化」のスピードを遅らせると言うスタイルを取る。

其の結果、
「上園磨冬」は、
瞬間(いま)を生き抜いて居る・・・
生きる「フリー・エイジング」
一般的に言えば、
生きる「アンチ・エイジング」として・・・


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「何をしたら、そんなに若く居られるんですか?」

十数年間ずっとずっと、
非常に良く聴かれ続けて居る質問で在る・・・

初対面の人なら、
年齢を聴いて来て、
僕が答えると、
「嘘」だと必ず言い、
其のまま信じ無いか、かろうじて信じるかで、
でも、どちらにせよ
必ず、この質問が来る・・・



だから、いつもこう答える・・・

「『何をしたら』じゃ無い・・・
『何をし無かったら』なんだ。

『何かをスル』には御金も時間も掛かる。
だから、物理的に無理だったり、続か無かったりする。

『何をしたら』じゃ無い・・・
『何をし無かったら』なんだ。

それには御金も時間も掛から無い。
続くか続か無いかは、物理的な事で無く、
己自身の問題だけで在る・・・

要するに『タブー』の数を、
どれだけ知って居て、
どれだけ行なわ無いか・・・

それだけの事・・・」



要するに、何かを達成する為には、
ヤッテはイケナイと言う「タブー」への決別と言うモノが重要で在ると言う事。

其の「タブー」は、
非常に魅惑的なモノが多い為、
関わりを持た無い様にする事は非常に困難で在る。

中途半端で無く、
かなり芯の通った信念と気合が必要で在る。

コレは、
エンターティナーや職人や技術者と言う、
「プロ」の畑では最低限の常識とされて居る事と同じ提議だと想う・・・



「『何をしたら』じゃ無い・・・
『何をし無かったら』なんだ・・・」
 


「フリー・エイジング」を提唱、そして証明するには、
自らが生き証人としてサンプルと成る事が一番の近道で在り王道、そして真実だと想う。

だからこそ、
「キープ・オン・マイセルフ」・・・
自分自身を続けて居る・・・



圉圉圉圉圉圉圉圉圉 † 上園磨冬fromロテス † 圉圉圉圉圉圉圉圉圉