魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

病膏肓に

2016年06月11日 | 星の流れに

まだまだ続く射手座の土星。
射手座の舛添都知事は、もともと乙女座の東京とは相性が悪い。土星で思考停止しているところに、木星が乙女座に来てこの事態に陥っている。
舛添知事にとっては最悪だが、東京にとってはまんざらでもない。木星が来れば、病気が発見され、手術を受けたりする人が多い。つまり、改善される。

乙女座の東京は、魚座の海王星と、射手座の土星に縛られたままだから、オリンピックに加え、今度の都知事問題など、恥ずかしいことが続いている。
しかし、万事塞翁が馬。これまで続いてきた都知事のあり方が正されるだろうし、失政も中断されるだろう。

射手座の教育問題では、北海道の「しつけ」置き去り事件で、「しつけ」に対しての考え方も改善されるだろうし、また、教科書問題でも各社の選定合戦が加熱していることに何らかの改善があるだろう。コンピュータでは、Windows10の強制

また、スポーツでは、オリンピックやサッカーの誘致に関わる不正が大問題になっている。中国企業のインテル買収も土星の影響なのかも。(スポーツと、土星の金銭)
ドーピング問題もますます厳しくなっているが、面白かったのは、競技用自転車に、電動アシストを組み込んでいたのが発覚したことだ。機材ドーピングと呼ぶらしい。シャフトの中にモーターを組み込むなど、VWと同じで、いかにもヨーロッパ人の考えそうな007的ハイテクズルだ。もちろん、VWの不正も射手座現象。

ところで、AKB48の中国版SHN48が契約違反したと日本側が発表し、中国側は一切違反は無いと宣言した。他の合弁会社もそうだが、新幹線のパクリと全く同じ原理だ。ついでに言えば、南シナ海に関わる政権の態度と同じで、一貫している。
新幹線は射手座だが、「48」も、4+8=12→1+2=「3」の射手座。
やっぱり、射手座の土星の災いだ。

エンジンの空回り
なお、都民の怒りを増幅させている、舛添都知事の態度は、自動車人間エンジンの短所がモロに出ている。
エンジンは「対処人間」だから、全て、行為で対処しようとした。アレでダメならコレ、コレでダメならアレ、のように、次々と手を打つことが、卑怯で図々しい印象になった。
大局から、事の意味を考えて、堂々と一発で決めることを思いつけなかった。
このあたりは、シャーシの方が見得を切るのが上手い。少なくともその場はしのげる。

小出しにせず、初めから、「間違っていました!一年無休で働きます。OOをしたいので続投させて下さい!」と言っていれば、少なくとも、半数くらいの同情を得られただろう。ここまで、いじくり回したら、もう、誰も救いの手を出せない。


非合理観(3)

2016年06月10日 | 占いばなし

占いの目は非情
占いは科学ではないから、合理性にはこだわらない。ときには意図的に合理を排除する。しかし、真相を見極めるためには、科学以上に非情でなければならない。科学的合理性を超える大局観は、絶対の真相との対峙だから、科学にも道徳にも背を向けている。

科学的に考えてあり得ないこと、人情、道徳から考えて許されないこと。そんなこととは関係なく存在するものを見ようとするのが、占いの視点だ。
しかし、これは反科学の立場でも道徳否定の立場でもない。
例えば、麻原の空中浮揚などは眼中にない。

科学で解明できないことは数多存在するが、人間が修行で飛んだり消えたりすることは、動物としての長い人間の歴史の中で、誰一人見た者も行った者もいない。もちろん伝説や神話はあるが、冷静に考えれば、全てフィクションだ。
つまり、フィクションを見抜くのもまた、占いの視点であり、一方で、それを証明する必要もない。

嘘が嘘であったことを証明しろというのは、韓国に盗み出された仏像の話のように、あるいは舛添知事の精査のように、無意味な空回りであり、真相の核心から遠い、枝葉末節の世界だ。
そうした空しい水掛論を避け、試行錯誤や整合性を超えるのが占いの視点だ。

合理よりも道理を求め、その道理も人間の道理を超えた、天然の摂理、太極から考える。
正確よりほどほどを考え、いい加減より厳しさを求める。つかみ所のない禅問答に聞こえるかも知れないが、事相の神髄は、そう簡単に人間の浅知恵や小賢しさで説明できないはずのものではなかろうか。


非合理観(2)

2016年06月09日 | 占いばなし

データや論理による認識は、それを定める人知の世界であり、占いの目指す視点は、それとは異なる、人間の総合力による認識だ。
目で見える範囲を超え、目を閉じて察知するもの、多くのデータや論理的裏付けが無くても真相を見抜く力。それが、占いの目指すところだ。

合理性の怪しさ
たとえば、今話題の「桝添問題」は、誰でも黒だと認識する。それでも、桝添都知事は、「精査する」と言い続け、元検事の弁護士による調査結果を発表した。

事実を詳細に並べれば、そのデータはどの様にも評価できる。しかし、この事件の本質が桝添知事の背任行為であることは誰でも解る。経験的な認識力が万民にはある。
にもかかわらず、「精査」に拘ったのは、現代の科学的方法によれば、感覚的な原始常識は、対抗できないからだ。

データと論理で、事実を積み重ね実証していくのが科学的手法の優れたところだが、データの取捨、構成などを、一つ間違えると、虚構の真実を成立させる力も持っている。
桝添知事が精査にこだわったのは、データを分解し再構成すれば、別の定義が可能になる事を知っているからだ。
事故を起こした自動車を分解すれば、大量の部品になり、それは自動車事故ではなくなる。

今回の調査結果で何度も繰り返された、「違法ではないが不適切」とは、一つ一つの事柄に分解すれば、どれも事故原因ではないが、事故に関係したことは事実であると言っているわけで、どこを取っても事故の当事者ではないことにした。つまり、結果的に人は死んだが、事故は起こしていないと言っている。

司法判断が一般人の感覚と異なるのは、科学的精査を前提とする裁判の事実認定が、一般的な思い込みや感情による「事実らしきもの」と、違う次元で、事実を再構成するからだが、一体、どちらに価値があるのだろう。
料理は、様々な素材のトータルな結果として、一つの味になる。個々の素材を分析して、美味しさの理由を説明し、一つずつ順番に食べたら同じ味が出るだろうか。

本来、法とは絶対の摂理だが、人間社会での法とは、人間のための「定め」であり、もともと確かなものではない。(絶対の摂理は、人間にとっては残酷なものだ)
「定め」である法律の始まりは、万民の思いや感情の帰結するところを、要約し成文化したものだ。人の定めた法律そのものが、感情や思い込みに始まる。それを、分析判断する事は、合理的進歩に向かうように見えて、実は、法律の趣旨に逆らう事でもある。それが、判決に納得がいかない理由であり、法律の存在理由の毀損とも言える。

しかし、それでも、人間はその能力のおよぶ限り、より良く生きたいと願うから、ルールを定め、それを改良しようと努力を続ける。その立法司法の過程で行われる分析判断には、非情な合理性がなければならない。この非情な合理と、人間の心情とに生ずるズレにつけ込むのが敏腕弁護士だ。
法律の趣旨から考えれば、当然、黒であるものも、分解してグレーにしてしまう。

有名な「ベニスの商人」で、契約書に書かれた文言の瑕疵を突き、「一滴の血も流してはならない」と、逆転させるのは、もともとの契約自体が、非人間的だったからであり、非人間的な契約に対して、非常識的な合理性で対抗したことに意味がある。
人の定める法律は、根本的に人間らしくあろうとすることだから、合理的かどうかより、人としてどうかが優先されなければならない。
何かと言えば国際政治学者を名乗る「頭の良い」桝添都知事だが、合理性の盲点を心得た小賢しいだけの、「個臭い精事学者」だ。


非合理観(1)

2016年06月08日 | 占いばなし

占い視点
このブログで言う「占いの視点」とは、一般には独断と偏見と言われるものだ。
占いには科学的裏付けはない。経験と勘を術に高め、体感的に真を見抜くのが占いの目指すところで、科学とは真反対の立場にある。
よく、占いは統計学のようなものと考える人がいるが、これは科学時代の教育を受けた人の見方だ。確かに、最初の段階ではそのような入り方をするが、目指すところは、データや統計によらない認識力を持つことだ。

物事を理解するとき、測ったり検査したり、分析して、その性質を定義するのではなく、パッと見て、一言聞いて、本質を察知する。
近頃、人工知能開発の過程で、人間の脳が如何に優れているかが再認識されている。
人間は犬と猫の違いを、簡単に識別するが、これを人工知能にさせようとすると、膨大な情報を経験(蓄積)させなければならない。

しかし、人工知能はスピードと容量でそれをカバーし、遠からず、人間の能力を超える。当然、市販本に解説されている程度の占いなら、朝飯前でこなすようになるだろう。
問題はその先だ。
人間より遙かに優れた、認識と判断能力を持つようになる人工知能でも、人間を超えられないものがある。それは、欲望だ。
人工知能に「意図的に」欲望を植え付けない限り、人工知能は人間の優秀なアシスタントを超えることはない。

人間は生命体として、存続の欲望を持っている。これは単に、個体が自分の生命を守ることではなく、「存続」そのものに対する欲望だ。自分の遺伝子の存続であり、類としての存続であり、さらにそれ以上に、DNAはDNA自身の維持、発展、存続の欲望と方向性を持っている。DNAにとって、人間を含むあらゆる生命は、その道具でしかない。

その、DNAに支配された人間の能力は人知を越えている。この場合の人知とは、人工知能をつくり出す、人間の表面的な能力のことであり、人工知能はその能力に並ぶ事はできても、DNAの支配力を超えることはない。
つまり、人間の総合能力の背後にはDNAの意志があり、人間自身も知らない力、いわゆる「フォース」のような力を秘めている。


未来地球

2016年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

南シナ海。アメリカも本気になり始め、中国はイラ立っている。
軍部も外交部も国を挙げて、国際ルールには従わないと公言した。
国際連盟脱退に至った昭和初期の日本に替わって、アジア新軍国主義の暴走だ。

中国は経済力がつくと直ちに古代の覇権を再構築しようと動き出した。
アメリカを締め出すために、アジアの防衛はアジア人の手でと、聞こえの良いことを言うが、それは戦前の大東亜共栄圏と同じ民族主義だ。天下一家の思想は、アジアの民族間で、親兄弟の上下秩序を作ろうというものだ。中華民族が親となり兄となるから、みな従うのが当然だと信じている。
昔は、民族主義という言葉が、大義名分のようにさえ思えた時代があった。

しかし、こんな古代思想より、移民国家のアメリカの傘下にいる方がよほど未来への可能性がある。
アメリカの始まりは確かに白人によるものだったが、政治システムの力によって、紆余曲折を経ながら、あらゆる民族の融合に向かっている。
このアメリカの歴史は、2000年前の日本の姿であり、今日、日本人が自らを単一民族だと信じているように、2000年後の、地球一体化の始まりと考えられる。

中華文明は偉大な文明であり尊敬している。しかし、その古代システム故に、現在に至るまで地域間対立が残り、近現代の潮流に乗り遅れ、停滞してきた。
ようやく、世界経済のおこぼれで復活できたにもかかわらず、その「現代」を無視して、古代システムのままに世界支配をしようとしても、「現代」は従わない。当然、混乱が起きる。

中華文明の末裔の日本は、80年前にこの家族思想の戦争を仕掛けて「現代」に敗れ、現代の新しい仲間に加わった。
現代は、アメリカ的なベクトルが拡大を始めた時代だ。アメリカ国家そのものの拡大のことではない。アメリカ的グローバリズム、世界が人種の堝(るつぼ)に変わり始めている。

未来地球のモデル
世界はアメリカのように、新参者と原住民の争い、新参者同士の争い、統一集団内部の争い、荒廃と復興を繰り返しながら混ざり合っていく。これと同じ事が、日本の古代にも起こった。日本古代とアメリカが、世界の未来のひな形となりうるのは、新大陸アメリカも列島日本も、地球のように閉じられた世界だったからだ。

これに対し、中国が未来地球のひな形にならないのは、周辺に広大なニュートラルゾーンを抱えた土地であり、中華思想が生まれるのは、他者を蹴り落として舞台の上に立った者が中心の世界、「お山の大将俺一人」を繰り返してきたからだ。
閉じられた世界は、プロセスはどうであれ、最終的に融合しなければ、暮らせない。

中国では、勝者による支配層が頂点に立つが、アメリカは神の下に平等であり、日本は天皇の下に平等というシステムを築いた。
一つの神という概念がなかったから、神の子天皇という概念しか思いつかなかったものの、「国民は基本的にみな平等」の世界に向かおうとしていることには変わりない。

これからの地球は、誰か特定の人間や民族が支配する世界はあり得ない。
そのことを、中国人と中国共産党には理解して貰わなければならないのだが、200年の恨みと、4000年のプライドは、そう簡単には消えそうにない。
結局は「人を呪わば穴二つ」。自分が先に堕ちてもらうしか、道は無いのだろうか。

大転換3」、「冥王星→日本


歴史の人

2016年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

4日土曜日NHKの「トットてれび」と、「アナザーストーリーズ・ビートルズ来日」は、高度成長期の昭和の話だった。

昔、父に、戦争の歴史記録と実体験の印象とのギャップはどんなものか、尋ねたことがあったが、質問の意味が解らなかったのか、複雑な思いをまとめ切れなかったのか、何も答えなかった。
父に尋ねた戦時と、今、自分に取っての高度成長期は同じぐらいの時差に当たる。高度成長期は、もはや歴史になった。

高度成長期の再現は、自分の記憶と照らし合わせ、「そうそう」と思うこともあれば、「へー、そうだったのか」と思うこともある。空気は憶えているが、一つ一つの事柄は、それぞれ別の世界の話だ。
ビートルズの日本での最初のシングル「抱きしめたい」は、確かに買った。しかし、ビートルズ来日には全く興味がなかった。

その何年か前に、「ミロのビーナス」を観に行って、ひどい目に遭ったことで、その後の人生は、快楽や好奇心のために、人の集まるところに行きたいとは思わなくなった。
今日に至るまで、コンサートや祭に参加したことがない。ひどいトラウマだ。
頭から関心はなかったが、当時の世相は、台風とともにハッキリ憶えている。

「トットてれび」の黒柳徹子の回想録によると、向田邦子と極めて親しかったらしい。
二人とも東京の人で長女、射手座と獅子座、テレビ界に深い関わりを持ち時間帯を共有していたことから、確かに気も合ったのだろう。しかし、向田は自動車人間のハンドルで黒柳はガソリン。黒柳の一方的な押しかけと言える。

ハンドルとガソリンは、どちらも才気の人だが、ものごとに対し皮肉な見方をする沈思黙考型の向田にとっては、うるさいと思いながらも、思わず巻き込まれてしまう相手で、八白の向田に対し、四緑の黒柳という点でも、同じような作用が働くから、特に避けることもなかったのだろう。

世の中に有名人は数多いるが、向田ほど、星と実際の運命が一致している人も少ない。
射手座で太陽、水星、火星が合し、180゜の双子座で木星が対峙し、天王星が牡羊座で調和している。放送作家になるために生まれたような人だ。
飛行機事故で、亡くなったことは惜しまれるが、これも運命だったのだろう。
向田の場合は、佳人薄命より、才子短命と言うべきだろうか。


良かった

2016年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム

北海道の置き去り「しつけ」事件。大和君が見つかって良かった。
結果的には、みんなが喜ぶ、笑い話で終われた。

親の表情を見れば、悪意ではなかったことは一目瞭然だが、親の犯罪を疑う人は結構いたようだ。それだけ「しつけ」名目の犯罪が多いと言うことだ。

ただ、親の犯罪ではないとしても、これだけ探して周辺の山中にいないようでは、誘拐されたのではないかと心配になった。悪意の誘拐でなかったとしても、誰かが車で拾ったら、本人が帰りたがらなくて、判断に迷っているうちに時間が経ってしまうと言うことはあり得ることだ。

当然、警察は道路カメラなども分析しているだろうから、これだけ山林にこだわって探すと言うことは、監視カメラには手がかりがなかったのだろう。
しかし、それにしても、目と鼻の先にある自衛隊の施設などの建物に思いが及ばなかったことは、「子供がそんなに行けるわけがない」と言う思い込みがあったからだろう。

子供は大人より強い
置き去りにした親も、捜索をした大人達も、子供への理解がなさ過ぎる。
世の中のほとんどの人がそうなのだが、自分が子供だった頃のことをすっかり忘れている。
幼稚園ぐらいの子供の時、一人で通園していなかっただろうか。小学校低学年で友達の家に一人で遊びに行かなかっただろうか。

今は、世の中が物騒になって、送迎バスや保護者の見守りがあるが、昔は子供がもっと自立していた。山に暮らしている子なら、山林は近所の横町と同じで、子供同士で山に分け入って遊ぶことは普通だった。つまり、現代の街の子は、その機会がないから、そうしないだけで、能力はじゅうぶん持っているのだ。

今回の大和君は、「親に見捨てられた」決死の心境になっていたのだから、何とかしようと、秘めた子供パワーを全開したわけだ。
たまたま、身体を休めるにはもってこいの小屋があったことも幸運だったが、そこまで歩かなければ小屋を見つけることもなかった。

発見された後、ニュースで健康のことを聞かれたコメンテータ-の医師が、相変わらず「心のケアが大切です」と言っていたが、近頃は、子供は、様々な体験をして傷だらけになりながら個性を身につけていくのだと言うことが、忘れられている。

敗戦の復興を成し遂げたのは、心が傷だらけになった子供達だった。ケアケアで保護だらけの現代人が営んでいるのが、美しく沈みゆく日本だ。
治療漬け、福祉漬けの国民では、真昼の太陽を招き帰すことなど出来ない。

不幸な出来事ではあったが、大和君は、子供の生命力を大人に気づかせてくれたのではなかろうか。

 


役者坊主

2016年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム

射手座の市川海老蔵が、成田屋ゆかりの成田山新勝寺で得度して仏弟子になったそうだ。
土星は宗教や伝統を表し、寺や僧そのものも表す。土星が自分の星座に来たとき、得度する人が多い。気持ちが「土星」になるからだろう。つまり、悲観的で閉鎖的になりながら、それでも頑張ろうと、修行僧のような気持ちになる。

仏教徒は、仏弟子である先輩の師僧に従い、仏弟子になる。悟りを開こうと道を求める決心をすることを発心といい、得度して仏弟子に成り立ての人のことを新発心(しんぽっち)さんと呼ぶが、一般的には生前仏弟子にならず、死んで成仏できるように、慌てて仏弟子としての戒名を付けるから、死んだ人のことも新発心さんと呼ぶことがある。

海老蔵も、お父さんが亡くなったこともあり、土星が来て発心したのだろう。
得度式では、もともと坊主頭なので、形だけカミソリを当てたらしい。
見出しに「海老蔵出家」とあったが、正しくは、在家だから得度と言うべきなのかも知れないが、出家の方がインパクトがあって解りやすい。

得度して仏弟子にならなくても、人は生きていること自体が修行だから、みな、ニルバーナ(涅槃)を目指す求道の菩薩だが、仏弟子になると言うことは、その方法に従うということだ。その戒律を杓子定規に受け止めれば、うるさくてとても守り切れないが、要は趣旨を理解することにある。戒名は何か知らないが、そこに向かおうと、発心したことに意味がある。
これからは、海老蔵の芝居に、求道の精神が観られるのかも知れない。

同じ土星の影響が、舛添と海老蔵で、こうも両極端に出るのも面白い。


未来の党

2016年06月01日 | 日記・エッセイ・コラム

消費税引き上げ再延期は既定路線だが、野党の無策にはうんざりする。
アベノミクス失敗の責任を追及して不信任を出したが、そんなことしか出来ないのかと、無能ぶりがますます目立つことになった。

野党は、自分たちの提案を自民党にパクられると言うが、それは、言わば野党の存在価値でもある。そんなことは気にせずにどんどん提案すべきで、それは国民のためだ。
そうして、日頃から価値を認められることで、初めて、いざという時の代役として認知される。

いざという時とは、従来の与党の方法が通用しなくなった時であり、まだ顕在化していないが、今がまさにその萌芽だ。
工業生産による発展モデルが通用しなくなっている。新興国に、工業生産でシェアを奪われたからと、それと同じ次元で競争しても労働力でかなわない。サービスやインフラ輸出の道も悪くないが、競争相手が多すぎる。しょせん、高いところから低いところに流す、産業革命パラダイムの植民地発想だ。

グローバル社会が進めば、地球は均質化する。同じクラスに生徒が集まったとき、誰かが一人だけ多くの給食をもらえるわけではないが、人気者は何かと得をする。何かにつけて、賛同者が多くなる。
未来の国家に必要なことは、物を売る力ではない。文化と知恵を発信する力だ。今現在の日本は悪くない位置にいる。ガリ勉君になるより、人に好かれ信頼される知恵を持つ国になることだ。それが、未来の地球で目指す、国家の立ち位置だ。もっとも、その時、国家の概念は、現在と同じではないだろう。

しかし、今現在はまだそうではない。そうではないから、保守が与党でいられるのだ。裏を返せば、野党は未来にこそ存在の余地がある。
与党にイチャモンをつけている暇があったら、嘘ハッタリでも良いから、与党には出来ない未来の夢を語ることだ。現在の問題を挙げて、未来のビジョンを描いてみせれば、何かの拍子に、民心は一気に野党に流れる。

与野党にかかわらず、プロ政治家が現実にとらわれているうちに、現実離れした放言を繰り返すトランプや、フィリピンのドゥテルテのような人間が、民心を捉えた。
現在の日本の野党は、まともな未来ビジョンどころか、放言さえ出来ない。
現実に拘泥する与党の、その足をさらに引っ張ることしか考えられないようだ。
このままでは、遠からず、日本にもトランプやドゥテルテが現れるだろう。

野党の切り札
ところで、野党の中には、日頃、消費税に反対していながら、安倍政権の消費税引き上げ延期案に巻き込まれて、その是非を云々している党もある。
本当に政権を取る気があるなら、奇想天外で、かつ現実味のありそうな次元に、論点をひっくり返してはどうか。
消費税を否定せず、それでいて、消費税反対を現実化させるのは、何と言ってもモラトリアムだ。野党が、安倍政権をひっくり返すとすれば、戦争反対ではない。経済の代替案、消費税の一時的全面停止だ。

もうしないと言っているが、万一、ダブル選挙になったら、どうせ、ダメ元なのだから、自らの空疎なお為ごかし政策を捨てて、中途半端な福祉を大幅に削減し、消費税を停止すると宣言して、勝負に打って出れば、思わぬ大逆転もあるかも知れない。
まあ、どちらも無いだろうが。