魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

神も仏も

2011年02月20日 | 日記・エッセイ・コラム

中国は、日本を抜いて世界二位の大国になっても、日本は援助しなければならないと言っている。
理由は、色々とこじつけることはできるだろうが、徳や慈愛ではなく、根底は、「金」は取れるところから取る、商魂だ。

反日を続けながら、賠償代わりに金を出すのは当然だとも言う。
そして、何よりも、中国はまだ貧乏だからだと言う。

いずれも、それは、見方によればその通りだ。
しかし、中国が終戦時、日本に賠償請求をしなかったことを含め、
互いに何か大きな、受け止め方の「違い」があるような気がする。

日中韓の確執は、西欧諸国から観れば、理解できない不可解なものだ。
それどころか、当事者さえ、実は良く解っていない。
西欧諸国には遠すぎる問題で、当事者には目先しか見えない。
結局の所、これは、神仏の問題ではないかと思う。

神と仏
大きく世界を見渡すと、神仏がある文化と無い文化がある。
世界の文明国の中で、神仏がない国は中韓が代表だろう。
(韓国は、やたら宗教を持ち出すが、内容は極めて特殊)

キリスト教やイスラム教のような、神の前の平等。
仏教のように、何処までも越えられない存在への求道。
いずれも神仏の前に、人間は「至らない存在」として、傲りを戒めている。

しかし、神仏を持たない人々にとっては、人間は最高の存在であり、その長たる者は、天に代わって人を支配する。
天や太陽は、神仏のような仮想の存在ではない。目に見える上位物であり、しかも、人の長たる者は、そこからの降臨や授権の形で、絶対者そのものに成り代わる。

中国の易姓革命や、万系一世の日本の天皇のように、違いはあるが、人間の長は人間だ。だから、本来は日本も、神仏を持たないグループでありながら、仏教に帰依した天皇が続いたことで、中国や朝鮮とは、異なる文化を形成してきた。
日本はいわば、西欧的な東洋と言えるだろう。

上位者は上位者らしく
昨今の中国の横暴は、人間界の力の上位が「支配権の獲得」に直結する哲学だからだ。
「神仏の前に誰もが謙虚でなければならない」のではなく、「力上位の者は、より絶対者らしくしなければならない」のだ。

日本は中国に経済援助しなければならないという中国の主張は、
実質経済力上位の日本の当然のつとめであり、実は、中国は、援助中の日本が、もっと横暴でもやむを得ないと思っていたと考えられるし、上位の日本なら必ず、横暴だと思い込んでいたとも考えられる。

中国の不可解な度の過ぎる反日教育は、この「横暴な日本」に対する対抗措置だったのかも知れない。(B型は、ひがみっぽい)

日中韓のもめ事は、神仏を持たない者の上位争いと、仏教国日本の認識とがズレていることにあるが、日本が戦前の神道を持ち出す限り、同次元の争いは激しくなる。(神道は一神教の対立軸だったが)

人が神になる哲学は、神仏のない哲学と同類であり、日本が、摩擦を避けたいなら、この次元に与しないことが賢明だ。
ただし、ロシアは別問題で、常に上空を舞っているトンビが、舞い降りて来ただけの話だが。


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