魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

生活文化

2018年01月08日 | 日記・エッセイ・コラム

中国で取り上げられる日本人観は、自分たちの固定概念との比較で、良くも悪くも、相当、とんちんかんな見方で決めつけている。
これは、他府県の人が、京都の文化や生活を見るのと、よく似ている。
そして、海外からの日本人評に、良く見られれば得意になり、悪く見られれば、「来てもらわなくて良い」と怒ることも、京都人の態度とよく似ている。

自分たちのことを解ってもらえないと嘆く人は、その人自身が解っていないことが多い。
静寂や清潔にこだわる日本人は、昔からそうだったわけではない。電車の中の沈黙も、ゴミの分別も、ここ2~30年のことだ。海外から来た人が日本人と同じようにできないのは当たり前のことだが、それを、民度が低いなどと蔑視する。
こういう人こそ、自他の文化とは何かが全く解っていない。確かに、日本人は古来、不浄を嫌い、結界意識も持っていたから、ゴミの分別や電車での沈黙を容易に行うことができたが、これは文化の問題であって、上下の問題ではない。

NHKの日本ヨイショ番組「COOLJAPAN」で先日、外国人が不思議がる日本女子の「内股」について、日本人が誰も説明できず、外国人が思う「可愛らしく見えるから」に同調し補足して、「可愛らしく見せたいのが日本の文化だから」と答えていた。
こんなことも説明できない日本人を出演させるべきではない。その場で思いつかなかったなら、せめてテロップで解説すべきだろう。
日本人の内股は、正座と着物での歩行から習慣づき、体型の変化にも及んだもので、「可愛らしく見せよう」としているものではない。結果的に可愛らしく見えるかどうかは、また別の話だ。

 


 


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