魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

異界交流

2015年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム

中国の新聞が、日本などの先進国が、中国に技術提供したことで、新幹線や原発、旅客機などが、中国の逆襲に遭っていると、得意げに報じていた。
先進国は、技術提供時に、中国国内限定使用の条件をつけたが、技術流出は不可避であることを受け入れよ、とまで言っている。

この、「すでに既成事実である」の語り口は、中華流、易姓革命の論理で、「天の意志は、すでに我にあり、勝者に禅譲せよ、さもなくば放伐するぞ」と、勝者を誇示するハッタリだ。
しかも、勝ち負けに道義など無く、敵の力を利用するのは知者であり、騙されるのは愚者である。

赤壁の戦いで、諸葛孔明の、「草船で矢を借りる」計を、鬼神のごとく崇める中国人にとっては、敵の武器を計略によって手に入れるのは知者であり、紙切れ一枚で信じるのは、まさに愚者だ。

世間知らずの日本人は、善意は必ず解ってもらえる、情けは人のためならず、お天道様は見ていなさるから、陰徳を積む・・・と、限りなく人を信じ、泥棒に追銭を美徳と考え、無い袖を振る。
このどこが悪いか、日本人には理解できないだろう。もし、日本人に落ち度があるとすれば、独りよがりの「独善」だ。

神との出会い
近頃の日本人は、情けは人のためならずの意味を、相手にお節介をしてはその人のためにならない、甘やかしては成長を妨げる、自己責任を解らせてやるべきだ、の意味と捉えるらしい。
これは、欧米の契約世界にさらされた日本人が、情が通じないことを知り、個と契約に目覚め、欧米の個人主義を、それなりに理解した結果だ。

しかし実は、この欧米の契約世界は、アンゴルモワの大王=東洋の野蛮には勝てなかった。
自覚も契約も、暴力の前には吹っ飛んでしまう。
力の前では「黙って言うことを聞く」が、東洋の論理だ。東洋には契約する神がいない。

東洋では、言葉は武器の一つに過ぎない。中韓の大声が、何の裏付けもなく発せられるのは、言葉は神の前で語られるもの、とは思っていないからだ。
言葉は、単に相手の反応を見るための武器に過ぎない。

振り向けば古代帝国
ようやく契約概念に慣れた日本人だが、今度は、それを過剰に信じ、依存している。
中韓に、契約と法治と仏の情で接しても、予想通りにはならないことを、ここで再び学習しなければならなくなった。もう既に、相当痛い目に遭ってはいるが。

どんな約束も、力関係が変われば無意味であり、どんな強気なことを言っていても、状況が悪くなれば無かったことにして、逃げてしまう。
条約など、その場の状況を確認する言葉に過ぎず、言葉より、力に基づく現実が天の摂理なのだ。
これは、数学を知らない猫さえ、見れば最短距離が分かる・・・そういう原始理論だ。
当然、物理的に大きいものは小さいものより上と考えるから、大国志向になる。

この現実感には、約束事や人格の尊重など全く関係ない。
トラに襲われている強盗に、これで防ぎなさいと銃を渡せば、トラの次にはこちらが狙われる。それが現実だ。
どんな約束も意味は無い。誰が銃を持つべきかではなく、現に誰が持っているかだ。

戦略的互恵関係のWINWINとは、まさに力のバランスのことで、契約や約束など関係無い、力関係が崩れるまでの時間稼ぎだ。
力関係が崩れれば、強い者勝ちなのだ。日本人は、大陸の中間児ソ連の教訓を忘れたのだろうか。今度は、大陸本家の兄貴と何をしようというのだろう。

日中友好は大切だが、中国の次元の違う現実主義を、片時も忘れてはならない。
そして、もっと重要なことは、彼らは悪意ではないと言うことだ。
悪意や善意などと、情で考えているようでは、いつか滝まで流される。


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