魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

もの言えば

2006年10月06日 | 日記・エッセイ・コラム

阪神大震災の時、「東京でなくて良かった」と言った地震学者が、やり場のない感情から総攻撃を受けた。結局は「学者バカ」と笑い者にされ収まった。
ただ、彼を弁護したくなるのは、泣き叫びこそしないが、『本当に大変なことだ』と思ったからこそ、学者として思わず出た言葉であって(それが学者バカなのだが)、口だけ慇懃無礼に哀悼を述べる者よりはるかに誠意があるのではなかろうか。
直情的に泣き叫ぶことの裏返しには、コリアタウンでの大歓声もあるわけだが、その一方で、震災当時の神戸の人々の冷静さには世界が驚いた。日本人として誇りを感じ、思わず目頭が熱くなる。

地学者や歴史学者、あるいは全ての学者は、人間の情緒的な営みから一歩離れた、次元の違う客観的な世界でものを考えている。だから、どうしても、世間の喜怒哀楽とはズレてしまう。着眼点がズレているために、いくら神妙な気持ちを口にしても、世間では「あってはならない」言葉になってしまう。
重大事件が起きると、人間の思考は一時停止する。この「猫だまし」状態では、チョットしたことで理屈抜きの盲動が起きる。911でイラク攻撃に走った米国だけではない、どこでもスケープゴート探しが始まる。こういう時は、少しでも「ふさわしくない」言葉を口にしたものが槍玉にあがるから、世慣れた人間は沈黙を守る。

占い師も元来、尋常な観点でものを考えていない。生老病死、喜怒哀楽を事柄として考える。でなければ、運命などという冷酷なものを前に、涙の海で溺れてしまうだろう。
毎日起こる悲惨な事件に、「なんと言うことだ」と、一人の人間として心痛めると同時に、占い師としては「ああ、やっぱり」と、何とも言えない無力感を味わう。どんな悲惨な事件であっても、星は冷酷に告げているからだ。


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