魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

群雲の月

2016年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム

月満ちて昭和は遠くなりにけり

降る雪や明治は遠くなりにけり
おそらく、明治の終わりからこの句が詠まれた歳月と、昭和の終わりから今年ぐらいが同じ時間に当たるのではなかろうか。
群雲に隠れる中秋の月を観ながら、ふとそう思った。
明暗交々の昭和には月が似合うような気がする。

近頃、昭和歌謡が見直されているようだ。平成に入る頃から、日本の流行歌は歌謡ではなくなった。古来、日本人はメロディーやリズムではなく、言葉を歌にしてきた。言葉を伝えるために、声をしぼり出した。東南アジアに残る歌垣がそれを伝えている。歌会始で聴くような詠みが、山々にこだましていたにちがいない。

近年のポップスは、楽曲中心で、言葉がただの飾りになっていた。わざと外国訛りのような発音にしたり、英語式の韻を踏んだりで、言葉を音としてしか扱わなかった。
その貧困の中でも、若者はやはり言葉を唄い、言葉を聴いていたようだ。

そして、約四半世紀の歳月を経て、言葉その物に対する感性が、再び目覚め始めたように思う。方言ブームに始まり、昭和歌謡の見直し、新しいトレンドにも、昭和歌謡的歌詞や発音が頻繁に聞かれるようになった。
面白いことに、この傾向は、どうも世界的な傾向らしく、近頃、聞こえてくる海外のポップスにも、1950年代60年代と錯覚するようなサウンズを耳にする。共通していることは、言葉をハッキリ発音し、しっかり伝えようとしていることだ。
音に飽きてきたのかも知れないが、もしかすると、ネット文字文化の影響もあるのかも知れない。

ファッションも例外ではなく、再び、60年代前後の大作りな柄や襟やボタン、ヒールやブーツなど、ブランドや、トータル・ファッションよりも、アイテムへの関心が広がっているようだ。
面白いのは、フランスの海水浴場での、ブルキニ騒動だ。イスラム教徒が肌の露出をしないためのブルカが、問題になっていた矢先、肌を露出しないための水着として、ブルキニ(ブルカ+ビキニ)が出現し、さらに話しをややこしくした。

肌の露出に対するアレルギーは、寒い文化の欧州にも強くあり、ハワイに来た宣教師が、ブラジャーを強制したり、日本の公衆浴場や混浴を蔑視した話も有名だ。半世紀前のビキニの出現は世界的大事件で、「ビキニのお嬢さん」などの歌にもなった。解放の波はさらにトップレスに進み、今では世界の名だたる海岸では、裸も普通になった。
しかし、1世紀ほど前の海水浴シーンでは、男女ともに、上から下まで覆うワンピースで、今話題のブルキニにソックリな水着で泳いでいた。
それから百年経つと、不穏で違和感があるからと、ブルキニを禁止しようというのだから、隔世の感だ。捕鯨と云い、人権問題と云い、欧米人の勝手には付き合いきれない。