魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

恐ろしや

2015年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム

大分、高崎山のサルの赤ちゃんに、「シャーロット」と名付けたら、猛抗議で動物園が謝罪した。
何と馬鹿げたことだろう。
この辺りが、日本の皇室意識の危うさだ。皇室が望む「開かれた皇室」と、真反対の意識を、日本人自身が持っている。皇室が気の毒でならない。

自分が愛する者に、王室や皇室にあやかって命名するのは、人間には許されてもサルには許されないという矛盾。
ミッチー・ブームの時に流行った名前は何だったか憶えているだろうか。愛するならば、子供でもペットでも同じで、その最愛の者に、敬愛する「人」の名前をつけたくなる気持ちは、むしろ、最大の敬意だ。

これを、「不敬」と思うのは、王や天皇を、神性とするからだ。昭和天皇は人間宣言をしたはずだ。
神性は冒してはならない、祟りを畏れなければならない。触らぬ神に祟りなしとして、祭り上げ、利用したのが戦前の軍国主義だった。

そうした、危険なマグマが日本人の中に根深く流れている。ことに九州にはそうした信仰心が強く、古代から日本の宗教の玄関であり、オウムなど新興宗教の多くも九州に始まっている。
見方によれば、薩長による明治維新が勤皇となったのも、武士の関東文化に対する、古代より続く尊皇文化、日御子信仰による宗教戦争レコンキスタと言っても過言ではないだろう。

西欧の王は、実力者、ヒーローであり、仲間のリーダーだが、日御子は神性であり、信仰の対象だから仲間ではない。
「シャーロット」の不敬騒ぎは、この不可侵の存在が利用されかねない下地が、まだ日本にはあると言うことを表している。

欧米で、国旗を自分が着る洋服に仕立てたりするのは、それほど愛している表現だ。
日本でも最近はそうなってきたし、皇室に対する関係性のあり方も、かなり西欧と近くなってきた。しかし、今回の例に見られるように、近年、不可思議な復古現象が広がっている。(日本人の名前観の問題もあるが)

大戦争による大きな代償を払って、日本人は解き放たれ、半世紀の自由を謳歌していたのに、本当に、回り回って、元来た道に還っているのではないか。

「畏くも!・・・」と言っただけで、直立不動を強いられるような時代が、来ていないとは言えないのではなかろうか。
恐ろしいことだ

(※これを書きかけのままにしていたら、動物園側が英王室に問い合わせて、そのままシャーロットに決まったそうだ。良かった)