魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

一見さん

2015年05月01日 | 京都&ケンミン文化

『シュリーマン旅行記』の中で、150年前、シュリーマンは驚いた、
「シナ人は偏執狂的なまでに賭け事が好き」と言っている。しかも、全財産すってしまっても全く動じないと、さらに驚いている。
中国の不動産投機や、株売買の様子を見ると、現在でも中国人気質は変わっていないようだ。

シュリーマンは、さらに、シナ人は賭け事を神託のように思っていると続ける。
おそらく、禍福は神の思し召しだから、目一杯張って、運を天に任せる。ダメだったら、あっさり諦める。そういう、良く言えば現実的な潔さがあるのだろう。

日本でも、商売に失敗した時、トコトン取り返そうとする人や、取引相手を恨む人がいる中で、江戸っ子は妙にあきらめが良い。
大金を持ち逃げされて、会社が倒産した人が、「やられちゃったよ」と、一言言って、それ以上、何も言わないような光景を何度か見た。大阪商人にも似たようなところがある。

ところが、連鎖倒産の多い京都では、何十年経っても、ハッキリではないが、恨み節を聞くことがある。連鎖倒産は、互いにもたれ合っていたわけで、他人の御陰も自分の責任もあったはずなのだが、その辺りのことは触れずに、平家の落人のような哀話になる。

京都は、千年間、日本人が離合集散しながら煮詰めた、日本のエッセンスのような土地で、全体的に日本人の象徴のようなところがある。
これに対し、大阪は海外貿易のせいか中国によく似ている。言葉のイントネーションも中国語的であり、笑いと大声、政治に無関心で現実的金銭感覚。強烈なファッションセンス。日本の中ではかなり異質で浮いている。関西はラテン系と言われるが、むしろ中国系だ。(大阪も中国もカニ座)

職人ニッポン
商売は仕入れた物を売って利益を得る。元手は必ず必要だ。博打は賭けなければ始まらない。元手とリスクに拘わってばかりいては、商いは成り立たない。だから、いったん賭けた以上、負けには拘らない。ただし、戻る可能性がある限りトコトン努力はする。
最近の中国での不動産詐欺や、倒産解雇で中国人が怒り狂っているのも、相手がハッキリしているからだ。完全にダメだと解ったら、江戸っ子同様、「やられちゃったよ」というかもしれない。

靖国参拝や尖閣に対して、みっともないぐらいの意思表示をするが、効果が無いとみれば、サッと切り替える。この辺りも、博打と同じ事で、張ってみて当たらなければ、いつまでも拘らない。消えた元金のことをいつまでも言わないのが商いセンスだ。
博打と商いの心得は、
「儲かるとみれば、当たりそうなところに大きく賭ける。外れたら何時までもグジグジ言わない。サッサと別の芽を探す。あれこれ考えるより、とりあえずやってみる」
そういうことのようだ。理屈よりマメさだ。

こういう感覚からすれば、日本が、勝負あった戦争の話を、いつまでもしていることが理解できない。敗戦で過去のシステムはとっくに無くなっているはずなのに、いつの間にか、ホコリを払って使われている。理解できないから、新しく始めたのと同じ事だと思う。少なくとも、そう主張する根拠になると考える。

「ダメ元」思考が理解できない日本人は、不合理な博打を嫌い、何をやるにも「失敗は成功の元」と考え、一つのやり方を諦めない。
一貫して一道一芸を追求する島国の職人には、商売は解らない。だから、商売人の出たとこ勝負も計画的なものだと考える。逆に、商売人には試行錯誤の一芸追求が理解できないから、「今度はやり方を変えてみました」と、同じ物を持ってきたら、「前と同じじゃないか」と怒ってしまう。

日本の商人は相手を信じるが、商の中国は取引の合理性を見る。
いい話を持ってきたら「それでそちらの利益は何?」と言うことだ。これは、世界的な取引の基本でもあるWIN・WINだ。

京都で連鎖倒産が多いことと、いわゆる日本企業の体質は同根だ。
商の基本は、知らない者同士の取引だが、日本人は知っている者同士で取引をする。
初めて出会った取引相手とは「先ずは一杯」やりたがる。一見さんお断りの世界だ。これは、取引ではなく、なれ合いの融通であり、職人気質の日本人は商が苦手、つまり外交ベタもここから来ている。

日本人は、額に汗しない投機や博打はケシカランと思う。ところが、世界は金儲けに道などないと思っている。それぞれが得意な方法で稼ぐだけだ。草食動物も肉食動物も生きている。

中国人に対するシュリーマンの驚きは、おそらく、一か八かの賭け方をする無謀さに、欧米人には無い、死生観のようなものを見たからだろう。
庶民と教養人の違いはあるとは言え、中国政府の行動様式は、「ダメ元」だ。