魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

儚いもの

2014年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム

佐世保の事件は、今度は猟奇殺人に話しが進展しているようだ。
警察発表の真偽は今の段階で何とも言えないが、子供の殺人事件のあい続く佐世保では、精一杯命の教育をしてきたのにと嘆いている。

この事件について、もう触れる気は無かったのだが、佐世保の教育関係者がショックを受けている話を聞いて、この件でもまた、「やれやれ」と思った。
教育関係者が本当に真剣で、まじめに取り組んでいることはひしひしと伝わってくる。と同時に、教育者の限界を見るようで気の毒になってくる。

教育に携わろうとする人は、基本、真っ直ぐな人だ。
「がんばれ」と言えば、人は頑張ると信じている。それと同じ性質の人は、確かに、頑張る優等生になるだろう。
しかし、必ず、それに背を向ける生徒がいる。結果的に、それは劣等生になることが多い。

中には、素直に聴きはしないが、要領で適当に成績を挙げる人もいるが、まれか、あるいは、遙かに先生の上の次元を行く人だろう。

佐世保の「命」の教育の様子が映っていたが、あまりにも「ベタ」で驚いた。
「命は大切、命は大切」一辺倒の連呼状態で、「命って本当に大切か?」「命は何で大切?」「命より大切なものって何?」のような、素朴な疑問に答える様が垣間見られない。
「命って何?」という、素朴な疑問を持つことすら、頭から封じ込めている様にうかがえる。

これだけ、あえてタブーを創り出せば、ちょっとヒネた子なら、むしろ、疑問の方が大きくなる。
原始時代のように、集団の中しか情報源が無い時代や、何々サティアンの中のような世界なら、洗脳は有効かも知れないが、無限に情報源のある時代に、連呼は逆効果だろう。

そんなに大切な命ってどんなものだろうと、好奇心が歪められていくことも無いとは言えない。

大切なものとは何か
子供の頃、「人の命は地球より重い」と聞かされた瞬間、じゃあ何故、戦争で膨大な命が簡単に失われたのかと、言葉そのものを空虚に思った。

子供は素直だから、立前だけの言葉など、受け入れない。
「王様は裸だ」と言う子供に嘘はつけない。
子供に言うべきことは、「裸も素晴らしいだろ」と、ありのままを肯定することだが、裸はみっともないと信じている大人には、それを言う発想すら無い。

「命は大切」と吹き込むことより、命がいかに「儚いもの」かを理解させれば、自然に、如何に大切にしなければならないかを理解する。
頭から死を遠ざけ、悪を遠ざければ、子供の疑問は満足できない。

佐世保の少女は、母の死が理解できなかったのかも知れない・・・これもまた、ふとそう思った。