魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

議場の恥

2014年07月04日 | 日記・エッセイ・コラム

ヤジ問題にはイライラする。
ヤジは正式な議論ではないし、むしろ議事を妨害するものだ。
慣習的に「ヤジは議場の華」などと正当化しているが、一つには音声という物理的な妨害で、発言そのものを封殺する暴力だ。
駆け寄って殴ったり、水をかけたりすることと全く同じ事だ。

ヤジの内容の良し悪しを問題にすることは、ヤジそのものを認めることになる。
この度のセクハラ騒ぎも、その内容だけ取り上げられているが、騒げば騒ぐほど、ヤジそのものの存在を正当化することになる。

セクハラも蔑視もない。ヤジそのものが論外だ。

昔、明治の議事録というものを読んでいたら、
「意見・・・」「意見・・・」の合間に、「ヒヤ、ヒヤ」と、ヤジが飛んだことを記録していた。
これが、「ヒヤかす」の表現なのだろうが、ヤジは「ヒヤ、ヒヤ」以上ではない。議論の方法が洗練されない昔でさえ、ヤジは無視されていた。

「ヤジは議場の華」という言葉が生まれたのもこの頃のことだろう。
後進国ほど、議会に暴力が横行する。
ヤジを認めるようなスタンスで騒ぐより、ヤジという暴力行為を恥じるべきだ。